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高千穂町指定 史跡 西南の役官軍墓地

▶ in 高千穂の史跡 posted 2016.10.21 Friday / 08:29

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西南の役 〜可愛岳(えのだけ)突囲〜

明治10年8月15日の和田越え(現在の延岡市)決戦に破れた薩軍幹部は、15日〜17日と西郷隆盛の宿である、児玉熊四郎宅(現在の延岡市)に集まり、最後の軍議を開きました。
最後の軍議(再現した展示物)児玉熊四郎宅(延岡市)
〜 西郷隆盛宿陣跡(西郷南洲翁寓居跡)(延岡市北川町)にて 〜

周囲を完全に官軍に囲まれた状況下で、この地で決戦か降伏は、また、どの方向に向かう突囲かで激論となりましたが、西郷が「まず可愛岳(えのだけ)を突囲し、三田井に出る。それからのことはまた考えれば良い」と決断をくだしました。
この場面は、その時の様子を再現したものです。

高千穂町指定 史跡 西南の役官軍墓地

高千穂町指定 史跡 西南の役官軍墓地
〜 高千穂町指定 史跡 西南の役官軍墓地 〜


官軍墓地
この小高い丘には、明治10年(1877年)8月18日、可愛丘(えのたけ)の戦いで戦死した陸軍士官見習、村上清之進(広島県出身)をはじめ本郡内で戦死した全国の官軍兵士の墓42基があります。

8月18日 可愛岳を突破した薩軍は〜祝子川〜鹿川峠〜湾洞川越〜岩戸と、険しい山岳地帯を越え三田井を急襲(8月21日)、その後、五ヶ瀬町〜諸塚村〜西郷〜銀鏡〜西米良〜多良木〜小林〜城山についたのは9月1日でした。

高千穂町 指定 史跡 西南の役官軍墓地
〜 高千穂町 指定 史跡 西南の役官軍墓地 〜


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天の岩戸神楽発祥の地 神楽尾

▶ in 高千穂の史跡 posted 2011.08.22 Monday / 08:21

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天岩戸神社へ通じる7号線を走り、天岩戸の湯入り口の交差点を左折(この道路は広域農道西臼杵地区、通称“神話アグリロード”)、坂を登って行くと、神楽尾集落にとなります。
神楽尾に「天の岩戸神楽発祥の地」の石碑や鈿女の舞の石像があります。

天の岩戸神楽発祥の地 01

碑文

天の岩戸神楽発祥の地
古事記・日本書紀に伝えられる天の岩戸開きの神話
天の岩戸はここ神楽尾の眼下の荘厳な森の一角
岩戸川沿いにあります
地元の伝説によると天の岩戸の前で(ウズメ)の命が
おもしろおかしく神楽を舞われてのち神々は
(アマテラスオオミ)神へ捧げる天の岩戸神楽を
 この地で奉納したと伝えられています。
      平成十五年三月


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高千穂 浅ヶ部 八十八ヶ所霊場

▶ in 高千穂の史跡 posted 2011.04.22 Friday / 22:46

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88 Sacred Sites of Asakabe

高千穂の浅ヶ部地区には、八十八ヶ所霊場があり、歩いて巡る事ができます。

霊場めぐり案内板より
 高千穂町浅ヶ部地区では、天保3年から5年にかけて大飢饉にあい、庄屋が藩に訴えて肥後米を買い付け、難を乗り越えました。その時近郷から得た浄財により、有志が四国八十八ヶ所の寺院の土をもらって帰り、天保6年3月21日に浅ヶ部地区に開眼・開場されました。 
八十八体の御本尊はすべて同一寸法で、高千穂地方に多くの庚申塔・仁王石像を刻している、延岡・舞野の石職人利吉が製作しています。
原石は田原村有志の寄進言われています。
毎月21日には霊場の参拝者が多く集うそうですが、旧暦1月21日の初大師、旧暦3月21日の弘法大師の忌日、旧暦7月21日には各お茶屋さんでお茶や赤飯などのお接待があってさらににぎわいます。
旧暦の3月21日には祖先の慰霊供養「施餓鬼(せがき)法要」、前日の20日は焼山寺での「おこもり」、21日にかけて八十八カ所を歩いて回る「おやまかけ」が行われます。
浅ヶ部 八十八ヶ所霊場 01
[23番の札所の周辺]


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高千穂太郎の墓

▶ in 高千穂の史跡 posted 2011.04.19 Tuesday / 21:35

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場所:崎県西臼杵郡高千穂町大字向山椎屋谷
地図:マップファンリンク 
緯度経度:N=32.41.46 E=131.18.6
*地図も緯度経度も自信なし、おおよそと思ってください。
道順的には、高千穂峡ボート乗り場のところの前の道を山の方(向山方面)へ入った道沿いに入口の鳥居があります。
地図はその鳥居の位置です。 

高千穂太郎の墓 01

 高千穂郷は、古来神武天皇の兄、三毛入野命(ミケイリノミコト)の子孫と称する三田井氏が、治めていましたが、平安末期、天慶年間(938~946)に家系が絶え、豊後の国大野郡領主大神大太惟基(おおがだいたこれもと)の長子太郎政次を養子に迎え、代々高千穂太郎を通称したと伝えられています。
その後、高千穂氏は、室町時代に三田井氏とも称し、肥後の阿蘇氏とともに九州中部に小さいながらも独立国域の平和郷を構築しいました。
戦国時代末期、豊臣秀吉の九州平定後の国割りにより、高千穂郷は県(あがた)(延岡)城主高橋九郎元種の支配地となりますが、三田井氏はこれを不服として元種に反抗します。
天正19年(1591)、元種は三田井家の家老大人(おおひと)城主、甲斐宗摂(かいそうせつ)を一計を弄して見方に率いれ、三田井家領主親武(ちかたけ)の本城「中山城」を攻略し、文禄3年(1594)三田井一族は滅亡します。
高千穂太郎の墓は、初代政次の墓として毎年4月15日を例祭日と定め、里人により大切に祀られております。
尚、墓石には「卍捐館松翁永仙大禅定門神儀(えんかんしょうおうえいぜんだいぜんだいじ)」と刻しいぇあり、周囲には「仲山城址」をはじめ、三田井氏の菩提寺の跡が残されています。
また初代高千穂太郎政次の墓の後ろには、最後の仲山城主三田井越前守親武の墓もあります。

卍 はインドに伝わる言祥のしるしで「万」を表す梵字(ぼんじ)・捐館は館を意味で貴人の死を言う。
松翁永仙は法名で大禅定を修した人で大いなる禅門 立派な仏門に入れる人をいう。
神儀は法名の下に書く神位で、死者の霊魂をさす。 (高千穂町教育委員会)


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