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祓川神楽(はらいがわかぐら)(霧島東神社)霧島の峯より奥の霧はれて現われ出ずる其の峯の守 国指定重要無形民俗文化財 「高原の神舞(たかはるのかんめ)」 |
関連情報など 令和6年度(2024年)の祓川神楽は、例年同様、12月第二土曜日(12月14日)奉納予定です。暖かくしてお出かけください。 ![]() ![]() ![]() |
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祓川神楽の概要祓川神楽は「霧島六所権現」の一つ霧島東神社(旧名;霧島山東御在所両所権現社)の奉納行事として伝えられてきました。山の神の怒りをしずめ、神と人が直会(宴会)をするところから始まります。祓川の神楽は400年ほど前にはすでに行われていたと考えられています。以前は旧暦の11月16日の夕刻から翌朝にかけて、神楽宿とした民家の庭先に御講屋を設置して行われておりましたが、現在は、12月第二土曜から日曜日にかけて、祓川神楽殿に御講屋(みこうや)を設置し、奉納されています。当日は、午後7時頃から神事が始まり、神楽は翌朝7時頃まで夜を徹して舞われ、毎年各地から300名ほどの観客が訪れているそうです。 今回、ご紹介する写真の撮影年(平成22年)の神楽は、神楽殿では無く、特別に外に御講屋を設え奉納されされました。個人的には、やはり祓川神楽のような修験色の強い神楽は、神楽殿内等の屋内よりは、寒風吹く外で見たいと思っていただけに、幸いでした。 御講屋は三間四方、神棚中央に天照皇大神宮を祀り、この鳥居を法殊門とし、相対して延命門の鳥居を配し、右側の鳥居が福徳門、左側の鳥居が成就門で、それぞれ講庭の中心点を向くように建てられています。 四方には四筋の注連(しめ)を張り渡し、飾りをつけ、講庭の中空にかかるように筐つきの大きい竹 をさしかけ、その先端部に竹編みによった円形のヤタンバンという竹かごを吊るしています。 祓川神楽は剣の舞が多いのが特徴、中でも、12人があうんの呼吸を整えて舞う十二人剱(じゅうににんつるぎ)は出色。 「田の神」「杵舞」「三笠」などの農神舞は、平地の春神楽の根幹、本源だと考えられているようです。 |
平成22年1月 国指定重要無形民俗文化財となりました。祓川神楽は、平成22年1月、同じ高原町の「狭野神楽」 と共に、指定名称「高原の神舞(たかはるのかんめ)」として、国重要無形民俗文化財に指定されました。尚、狭野神楽は、一週前の第1土曜日に狭野神社参道近くに設けられた御講屋にて奉納されております。 高原町発行「高原の神舞(たかはるのかんめ)」パンフレット |
![]() 式参番(しきさんばん) 21:10[21:17] |
![]() 大光神(だいこうじん) 21:35[22:07] |
1人舞。神面・緋狩衣・白足袋を着用し、扇子・藤の鞭を持つ。一通り舞った後、椅子に座る。 | |
2人舞。素面、絣衣・白袴・赤帯を着用し、藤の鞭・扇子・錫杖を持つ。神歌なし。面舞を除く全ての舞の基本型に位置付けられている。 |
![]() 住吉(すみよし) 5:20[5:42] |
![]() 龍蔵(りゅうぞう) 5:30[5:50] |
鬼神の1人舞。黒毛笠・緋狩衣・緋大口袴・白足袋を着用し、右手に扇子・左手に御幣を付けた榊の枝を持って舞う。天の岩戸にまつわる唱教が主体。 | |
鬼神の1人舞。白黒毛笠・緋狩衣・緋大口袴・白足袋を着用し、右手に扇子・左手に御幣を持って舞う。住吉大明神の由来を唱える。 |
![]() 花舞(はなまい) 6:35[7:04] |
アクセス 他*神楽奉納場所は、霧島東神社境内ではありません。宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田 地図リンク 講庭の場所 国土地理院地図 緯度経度 N=31.53.25 E=130.58.14 (場所は必ずその年に高原町サイト等で事前確認を) 駐車場 講庭付近の駐車スペースは殆ど無く、周辺道も狭いので、国道付近で迷惑にならないところを見つけて駐車しました。 お酒屋さん 朝まで見学させて頂きますので、焼酎を奉納すべく酒屋を探したのですが、付近で見つけられず、223号を狭野神社の先まで車で結構な距離走りました。車で行かれるのでしたら、持参した方が無難です。 銘柄は、このあたりはやはり「霧島」が一般的なようです。 防寒は十分に 寒いです。とにかく寒いのでホッカイロなど、防寒対策は十分に!! |
祓川神楽関連リンク(外部リンク)などご紹介 高原町サイト 祓川神楽(宮崎県高原町) みやざきのうたと芸能 祓川神楽 (宮崎県)) 祓川神楽と狭野神楽が国重要無形民俗文化財の指定をうけました(日本で最も美しい村サイト) 祓川神楽殿(西諸県農業共済組合) |
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献撰された365個の餅を盆の上に乗せ、それを片手に持って舞いながら餅を落とす。その後刀舞をし、御講屋の外に出て、周囲に張り巡らされた注連縄を斬り落とす。 舞の最中に、御講屋内に落ちている餅を拾うため、客が御講屋内に押し掛け、餅の奪い合いとなる。全ての番付の中で、唯一客(女性も含む)が御講屋内に入る事の許される番付である。 |
文化庁の 報道発表(PDF) 平成22年1月15日 文化審議会答申 より 高原の神舞 (たかはるのかんめ) (1)文化財の所在地 宮崎県西諸県郡高原町 (2)保護団体 狭野神楽保存会 祓川神楽保存会 (3)公開期日 毎年12月第1土日曜日(狭野) 毎年12月第2土、日曜日(祓川) (4)文化財の概要 [1]文化財の特色 本件は、霧島連山に対する信仰を背景に、高い牲を立てて大規模に行われていた神舞の姿を現在も継承しているもので、特別な舞の囁を設けることや、剣を持っての勇壮な舞などに特色がある。 [2]文化財の説明 本件は、高原町の狭野地区と祓川地区それぞれに伝承される神楽で、地元で神舞と呼ばれる。両地区は地元で信仰対象となっていた高千穂峰の東麓に位置する。同峰の周辺では信仰を背景に高い柱をかかげる神舞が各地で行われた。 そのなかで高原の神舞は、江戸時代の早い頃には現在と同じように行われていたとされる。 ともに舞の場所に三本の高い柱を立て、その前に三間四方の広さに注連縄(しめなわ)で区画し、舞い手の出入りのために鳥居を設け、その中で二十数演目を夜を徹して舞う。仮面を付けずに手に剣や御幣などを持っての舞や仮面を付けて神に扮しての舞があるが、各演目とも基本的に舞が中心で、途中で静止して神歌を唱える。舞に演劇的な要素が少なく、剣を持っての舞では、刀の柄を持って舞ったあとに剣先に持ちかえて舞う。他の神楽のように刀を持って、ゆるやかに舞うのではなく、剣先を握りしめて振り回すなど勇壮で、芸能の変遷過程や地域的特色を示し重要である。 祓川神楽・狭野神楽 近年の年表1957 昭和32 12/1 狭野神楽保存会結成1958 昭和33 4/1 祓川神楽保存会結成 1969 昭和44 4/1 祓川神楽、県無形民俗文化財に指定 1974 昭和49 12/4 祓川神楽、国選択重要無形民俗文化財に指定 1986 昭和61 12/1 狭野神楽、町無形文化財に指定 2003 平成15 4/26 狭野神楽、県無形民俗文化財に指定 2010 平成22 1/15 祓川神楽及び狭野神楽が「高原の神舞(かんめ)」として、国の重要無形民俗文化財に指定 先行して平成22年に書いた ブログ(ひむかブログ2)の記事もご覧下さい。12月第二土曜日~日曜日朝(今年は11日夕~12日朝)にかけ、宮崎県西諸県郡高原町の、祓川(はらいがわ)神楽、を見学して来ました。高原町は、霧島山の東麓に位置、 高原町のWebPage によると・・・・ 中略・・・・ 極寒の中で寒さしのぎに、受付の時頂いたお神酒(焼酎)を頂いたり、御講屋横では暖をとるため、薪が焚かれていおり、番付合間に、冷え切った体を暖めに行ったり、夜食に地元の十割蕎麦を頂いたり(青年団の方が格安でふるまい)等々、これぞ夜神楽の醍醐味、この雰囲気がたまりません。 関連資料祓川神楽の資料もあります。高原町で刊行している文化財調査報告書より一部引用 第二章 祓川の神舞第一節 概 要祓川神舞は、霧島東神社の社家の年中行事の一つとして、地元の祓川の集落に伝えられている。以前は毎年旧暦の2月16日(満月)の夕刻から翌朝の日の出頃まで、神楽宿の庭に御講屋(みこうや)を設営し、終戦直後まではそこで行われていたが、現在は12月の第2土曜日夕刻から日曜日の昼前にかけて、祓川神楽殿前の庭で行われている。昔は伊勢講神楽と呼ばれていた。現在は、祓川集落の中でも、霧島東神社の氏子のみ、およそ27戸前後・30名から40名が神楽に関わっている。全体的には舞などの消失は見られないが、番付のうち「柴の問」「陰陽」は100年近く舞われておらず、装束・採り物など不明である。又、浦安舞もあったというが、装束のみが残されている。 霧島東神社は、旧名霧島東御在所両所権現社、別当寺は霧島山花林寺 錫杖院、通称東光坊。ちなみに鹿児島県の霧島神宮の別当寺は霧島山華 林寺、どちらも読みは同じだが「華・花」の字により区別している。 社記では、康保3年(966)、比叡山延暦寺の性空上人により伽藍が整 備されたと伝えられるが、文暦元年の霧島山大噴火により焼失する。そ の後文明一八年(1486)、薩摩国の島津忠昌が真言宗の僧侶円政を派 遣して復興させている。一時期、高原が日向都於郡の伊東氏に占領され た折り、錫杖院も伊東方の修験者により支配されたが、島津氏が伊東方 の高原城を攻め落とした際、錫杖院も島津氏により奪還され、以後高原 と共に島津氏の統治が幕末まで続く。慶応4年廃寺となり、錫杖院は神 主館に、住持は高原郷の麓にあった法蓮寺に退去となった。 第二節 行事次第・番付祓川神舞では、神楽に伴う行事がよく残っていることでも知られてい る。行事及び次第は以下の通りである。(一)番付行事(11月1日 19時~)旧暦の11月1日(現在は12月1日)に行われる。神楽の中心メンバーである年行事(ねんぎょうじ、1年間の神楽についての責任者・2名)・主取(ぬしどり)その年の神楽係・4名、の取り仕切りにより、社家全員が集められる、公民館などが無かった頃は宮司宅で行われるのが慣わしであったが、現在では保存会長宅を利用している。その年の神楽宿・宮入の際の天照大神を担当する婦人・舞人・舞などが割り当てられる。その後、みんなで湯豆腐を食する。この翌日の夜から神楽の稽古が始まる。(二)神楽宿の設営(神楽の前日9時頃~)神楽斎行の前日の朝から行われる。年行司・主取・宿主など5~6人 が集合する。まず「松尾大明神」の注連を作成する。長さ6~70cmの 藁束に、御幣を付けた竹を上下各三本ずつ差す。藁束は神の胴体を、差 し込んだ竹は手足を表現している。最後に「松尾大明神」と書かれた紙を 藁束に貼る。太鼓の音に合わせて注連を立てる。最後に、注連の根元に 御幣を4本差す。 この作業は、日の出から正午までに立て、正午以降には行ってはいけ ないのが慣わしであった。本田氏報告によると、以前は、まず二週間ほ ど前から酒を造り「酒が出来たというしるし」に注連を立てたようであ る。現在は酒の醸造は禁止されているので、注連を立てるのみである。(三)内祭(うちまつり・神楽の前夜 19時)同じく本田氏報告によると、以前は旧暦11月15日(神楽斎行前 夜)、神楽宿内に造った酒部屋(中で濁酒を造っていた)に神楽奉仕人全員 が集まって行われていたが、現在は酒部屋及び濁酒の醸造は行われてい ないので、午前中に松尾大明神の注連を立てた神楽宿に集合する。その 際、3年前の神楽宿の軒先に刺さっている矢(3本)を抜いて持ってくる 神主による御祓いの後、神随を舞う。その後、その内の二人が、一人は 矢1本と御幣を付けた竹を、もう1人が矢2本をそれぞれ持って「デシ 舞」(「剱」の一部)を舞う。内祭終了後、また皆で湯豆腐を食する。(四)御講屋(みこうや)の設営(神楽の当日8時頃~)後述。(五)浜下り(破魔下り、はまくだり)午後7時頃、奉仕人一同御講屋に集まり、採り物を持って集落南西の 鳥居(霧島東神社の旧参道入口)に参拝し、降神の儀が行われる。その後 隊列を組む。順番は「塩ひ」・赤高幣・三叉鉾・地割りの舞手(装束は舞と 同じ)、剱(白装束に右袈裟襷・赤帯・黒毛笠着用、刀を諸手正眼に構え るが右手は逆手)・白高幣・長刀・天照大神(老婦人とユイノフタ)・宮 司・笛・太鼓・白高幣・はゑぬの(長い白布)、である。鳥居より御講屋 まで練り歩く。「塩ひ」は打ち水のような所作をしながら先導する。(六)各番付
(七)竃祭(かままつり)「太力」舞終了後、御講屋では番付が続く一方で、地割の舞手(弓矢を所 持)二名・神主・楽・太力の鬼神はそのまま列を成して神楽宿に向かう 。 以前、宿主の家が藁葺きの場合は、屋内より屋根に向かって矢を射込 む。瓦葺の場合は矢を差し込んでおく。現在は藁葺屋根がないので、玄 関の柱に付けた藁束に射込む。四本射て刺さらない場合は手で差し込む。 その後、宿の一角に造った竃の前に延を敷き、火を焚き、神主が昇神 の儀の祝詞を奏上する。それが終わるとその竃で鰯を焼き、それを肴に 御神酒をいただく。その後は献撰された供物を入れた雑炊を炊き、皆に 振る舞う。(八)板敷祓い(いたしきばらい)神楽終了後の直会(なおらえ)。以前は神楽終了後の夕刻から行われて いたが、現在は、神楽が終了して一週間前後に行われる。関係者が集合 し、献撰された食物などを皆で食する。なお、この翌日から翌年の板敷 祓いまで、新しい年行司及び主取が神楽に関する全ての事項を取り仕切 ることになる。この二役は昔から連番制で任命される。(九)御初祓い(おはつばらい)毎年一月八日に行われる。以前は次の年の神楽宿で行われていたが、 現在は希望制。内祭の時と同じく、神主によるお祓いの後、神随が舞わ れる。その後、着物の襟首に、「萱御幣(二〇cm程の萱を二本束ねて御幣を 付けた物)」を差し、湯豆腐を食する。これらは、神楽の本祭に伴って執り行われるものだが、本祭に関わらず神楽が舞われる時がある。 本祭以外には、 (一)三月・ 九月の霧島東神社の彼岸祭(午前10時頃) (二)11月8日の霧島東神社の例大祭の宵宮祭(午後8時頃) (三)元日に行われる霧島東神社の歳旦祭(午前1時頃) (四)氏子である戸主が亡くなった時の通夜の晩がある。 このうち(四)の習慣は、昔はよく行われていたが、現在は 次第に消えつつある。又、(二)では、舞はなく、舞手の出仕のみである。 十二人剱の舞手が全員揃い、社務所から二列縦隊で参拝客を先導して参 道を歩き、参道に並んだ僧侶が般若心経の唱えている中を通って拝殿へ 進む。続いて、一二人のうちの二人が、拝殿奥で刀を頭上で交差させ、 トンネルを造る。残り10人は拝殿下の石段で先の二人と同様のトンネ ルを造る。その下を参拝者が列を成して潜っていく。約二時間ほどそれ が行われ、神事に入る。 神楽の本祭以外で舞われる演目は(二)を除いて全て「神随(かんすい 」である。歳旦祭のみ元日用の歌が唱えられる。場所は(四)以外は全て霧 島東神社の拝殿である。 歳旦祭の唱教 新たまる 年の始の門松は 君に千歳のゆづり葉の松 第三節 御講屋の構成以前は、神楽宿の前庭に御講屋が造られたが、現在は神楽殿前の広場に御講屋が設営されている。御講屋の設営は早朝から行われ、設営については中人のオンズが全て司る。まず最初に、地割の舞手が地割りを行い、それから御講屋の柱を三間四方で設営し、注連を設置する側に柴垣を造る。 次に注連の準備が行われる。注連は、中心に「国常立尊・国狭槌尊」。 その右側に「伊弊諾尊」。左側に「伊弉冉尊」と、全部で三本ある。神楽 の注連と同じく、竹竿の先端に藁束をくくりつけ、下に四本、上に四本、 計八本の竹を差し込む。八本の内七本には御幣を付けているが、一本だ けは、ちょうど右手の位置に扇子を付けた竹を差し込む。続いて中心の 注連にのみ「シュタ」という藁束に白布を巻いた浮輪を付け、その下に小 さな御幣を榊葉を交互に付けた注連縄を四本括り付ける。他二本にも四 本ずつ括り付けるが、左右の注連の注連縄一本ずつを白布で結びつけて おく。それを真ん中から一本ずつ太鼓に合わせて立てる。 続いて御講屋の作成に入る。御講屋の四方にそれぞれ鳥居を立て、注連側に設置された、法殊門、に神棚(高さ約二m強)を据える。 御講屋の四方の鳥居・四隅の支柱には注連縄を三本くくりつけ。 上の注連縄にのみ「えり物」(本田氏報告では「雑華(ぞうか)」とある を貼り付ける。えり物は「梅と鶯(春)」「菖蒲と鳥(夏)」「紅葉と鹿(秋)」「松と雪(冬)」の四種類あり、4枚1組で柱と柱の間に一組ずつ貼る。 最後に地面に筵を敷き、八咫之盤(ヤタンバン)の設置に入る。竹製の 旅の底を上にとり、上方の縁に天神地祇十二神の名札を付け、下方の縁 には、天照皇太神宮。丸に十字、島津家の家紋「東」「輪宝」を一枚紙で 表したえり物を一二枚付け、笊の下方真中に「八咫之鏡」を付ける。神棚後 ろの真中の注連から竿を渡し、それに括りつけて御講屋の上空丁度中心に来るように引き上げて終了である。 肖像権・プライバシー権等について・・神楽見学の方については、お顔等の判別が出来ない程度に、画像処理にてボカシをいれました。神楽を舞われる社人の方や神楽の関係者の方については、特にボカシ等の処理は行っておりません。 不都合等ございましたら、メールをいただければ対応させていただきます。 また、記載文、写真等について、不適切な部分、お気付きの点等ございましたら、メールにてご指摘をお願いします。 ![]() 右の画像は、高原町のWebサイトに掲載されている、キャラクター「高原の神舞(かんめ)」です。 「高原の神舞」以外にも高原町のいろいろなキャラクターがありましたよ。 右画像をクリック! 【追記 平成25年12月18日】 平成25年度の祓川神楽は、12月14日~15日 祓川神楽殿で奉納されました。 以下は、12月17日付 宮崎日日新聞記事を参考に記載。 30年前には35軒ほどあった氏子世帯は、現在20軒ほどとなり、神楽の舞い手が20人に減少。どこの神楽でも同様の問題を抱えていると思います。 われわれに出来ること・・・ 神楽へ足を運び、一夜の氏子として観ることが一つの応援となるのではないでしょうか。 |
![]() *** 宮崎の神楽に関するお勧め本の紹介 ( 私の愛読書です。) ***宮崎の神楽 祈りの原質、その伝承と継承山口保明著 みやざき文庫2 出版社: 鉱脈社 単行本: 329ページ 高千穂から日南まで県内の代表的な神楽を紹介、祓川神楽も紹介されております。 目次ページを作りました。 → 目次のページ 下記リンクよりでインターネット(amazon)で購入できます。 宮崎の神楽~祈りの原質・その伝承と継承 (みやざき文庫 2) (みやざき文庫 (2)) 国内配送料無料(ページ作成時点での情報)
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