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山之口弥五郎どん祭り(やごろうどんまつり) 宮崎県山之口町

 宮崎県指定・文化庁選択 (日向の弥五郎人形行事)
山之口町の位置場所 〒889-1801宮崎県都城市山之口町富吉1702番地(弥五郎どんの館の住所)
地図:GoogleMap Mapfan Mapion マップコード(117 648 703)
 緯度経度:N=31.45.53 E=131.09.12(日本測地系)
 ●交 通
  宮崎より→山之口町 国道269号線経由・車で60分 JR日豊本線経由・45分〜60分
  宮崎ブーゲンビリア空港より→山之口町 国道269号線経由・車で55分
(現在は宮崎自動車道 山之口ICもETCで利用可能)
  山之口駅→弥五郎どんの館 国道269号線車で5分

 当サイト内、山之口弥五郎どん(弥五郎どんの館の紹介)もあわせてご覧ください。
 弥五郎どんの館 案内パフレット 





弥五郎どん(やごろうどん)は隼人族の首長

山之口 弥五郎どん 
昔、九州が西海道といわれた時代、南九州は日向と呼ばれていました。
昔からここに住んでいた人々が隼人族です。

 奈良時代のはじめ(約1300年前)頃、大和朝廷は、「養老律令」という法律をつくって支配の強化をはかり、全国の地方の政治をより細かく行っていこうと考えて、日向の国に薩摩と大隈の国を分置したのです。

 それまで首長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、一人一人が完全に帳簿に登記され、中央から派遣された官僚によって支配される事は大変な屈辱であり、一族としての今までの様な土地の所有権、又は生活ができなると思い、反抗したのです。

 養老4年(720年)、大隈、日向の隼人らは中央から派遣された初代大隈国守の殺害して叛乱を起しました。(隼人の乱と呼ばれている。)
隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力を持つ政府軍の前に力尽き、隼人の城は次々に落ちて大変いたましいものとなりました。
隼人の首領、弥五郎をはじめ犠牲なった1,400余名の隼人族の怨霊をおそれた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。
放生会で隼人俗の首領「弥五郎どん」の大きな人形とつくり、その霊を慰めるようになったのです。
神仏習合の八幡の名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」なのです。

御神幸行列の由来

言い伝えによると、的野正八幡宮に祀られている神様が、年に一回境内を出られて600m離れた、御手洗池のほとりにある池之尾神社に祀られているお母様(神功皇后)に会い行かれます。
そして、池のほとりに設けた仮殿で、浦安の舞や神楽、民俗芸能を母子いっしょに楽しまれた、それが、御神幸行列の由来といわれています。

浜殿下り

11月3日、的野正八幡宮の例大祭に「山之口弥五郎どん祭り」が行こなわれます。
御神幸行列の先頭に主人公「弥五郎どん」の大きな人形がその勇姿を見せてくれます。

「ここを立つ立つ この調で立てば 先も栄える いよ のちも茂る」

御神馬の馬方節が流れると行列が始まります。
浜殿下り唄は九番まであり、この馬方節にのって長さ300mにも及ぶ行列が、600mの参道に繰りひろげられます。
浜殿下りの見どころは、なんといっても行列の先頭を、子どもとともに行く弥五郎どんです。
下の絵は、古文書・三国名勝図絵に描かれている浜殿下りのようすです。
三国名勝図会より


古文書・山之口名勝志には「浜殿下りは、都城高木村平江の春日神社まで行われていた・・」とあります。
古文書・神社由緒御記録には「天文2年(1574)、北郷忠相は、高城・梶山・勝岡・山之口の各城が手に入るよう 的野正八幡宮に軍勢5,000人を召し連れて参拝、そして勝岡の内餅原村・蓼池村・高城の内桜木村・山之口の内木村を神領地に差し上げた。浜殿下りの神輿先に、武具・鉄砲・長柄等、武者行列のように相備え、流鏑馬も行われていた。それ以降は、浜殿下りには武具を備えることが習わしになった。」と書かれています。

弥五郎どんは、かつて白い面だった・・

山之口 弥五郎どん 明治初めの神仏混淆〜昭和58年にかけ、白い面を使っていた

南九州三ヶ所に伝わる弥五郎どん祭り

当時全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは南九州では、宮崎県都城市山之口町の的野正八幡宮、宮崎県日南市の田之上八幡神社、鹿児島県曽於(そお)市大隅町岩川八幡神社、の三ヶ所です。
中でも、山之口町的野正八幡宮だけに「放生会次第文書」が残されており、山之口町・的野正八幡宮の弥五郎どん祭り (日向の弥五郎人形行事)は国から無形民俗文化財に選択されております。

耶五郎どん3兄弟

弥五郎どんは三兄弟?

尚、上記三ヶ所の弥五郎どんは三兄弟であるという説もあり、山之口町・的野正八幡宮の弥五郎どんが長男、鹿児島県曽於市大隅町・岩川八幡神社の弥五郎どんが次男、日南市飫肥・田ノ上八幡神社の弥五郎どんが三男といわれています。 (各神社の創建年代より決まったものと思われます。)

 サイト内耶五郎どん関連リンク
日南市飫肥 田ノ上八幡神社の耶五郎様祭り
曽於市大隅町・岩川八幡神社 弥五郎どん祭り

 的野八幡・弥五郎

  長壱丈弍尺余=大人弥五郎
  後に竹内宿禰説も浮上。(的野神社神官定極帳簿)
  的野八幡神社は和銅3年(710年)創建

 岩川八幡・弥五郎

  身の長け一丈六尺=大人弥五郎
  武内宿禰とも。(三国名勝図会)
  岩川八幡神社は万寿2年(1025年)創建

 田ノ上八幡・弥五郎

  長一丈有半ノ偶人=長人弥五郎
  稲積弥五郎・武内宿禰とも。(日向地誌)
  田ノ上八幡神社は天永元年(1110年)創建

令和四年の山之口弥五郎どん祭りの場合

開催日時 11月3日(木) 8:00~15:00 会場:弥五郎どん館、的野正八幡宮、的野農村公園 周辺
  • 08:00 弥五郎どんの館集合 装束着付け 仮殿組立、人形組立、面、衣装着付け、注連縄作り
  • 10:15 神事 的野正八幡宮、大祓い、宮司一拝、開扉、献饌、宮司祝詞奏上、玉串奉奠(宮司・市長・役員・来賓)
  • 11:00 来賓昼食
  • 11:30 浜殿下り 花火、馬方歌
  • 12:00 神事 弥五郎どんの館
  • 12:20  八幡馬場(射場)での芸能奉納 浦安の舞、富吉小児童の郷土芸能保存会による棒踊りや俵踊り、麓地域の六十田剣舞、中原太郎踊り、正近棒踊り、桑原奴踊り、弥五郎どん音頭など郷土芸能が奉納。
  • 15:00 神事 弥五郎どんの館
  • 15:15 御神幸行列 的野正八幡宮へ還幸 弥五郎どん帰社 舞や民俗芸能などの奉納が終わる
  • 15:00頃 馬方節が流れると浜殿下りと同じ隊列が組まれ正八幡宮へ帰っていく。
  • 15:30 神事 的野正八幡宮
  • 15:50 行列が到着すると神事が行われ祭りの全てが終わる。
 

山之口弥五郎どん祭りの写真

[画像はクリックすると新しいウインドウで1024pixに拡大します。]


的野正八幡宮

的野正八幡宮的野正八幡宮

的野正八幡宮 祭神

 息長足姫命(おきながたらひめのみこと)(神功皇后)
 誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天応)
 玉依姫命(たまよりひめのみこと)(神武天皇の母)

昔は的野八幡宮といって、国分八幡宮の系列といわれ、和銅3年(710年)に創建されたと使えられる。
その古さは近郷にもめずらしいとされる。

浜殿下り(はまくだり) 御神幸行列

浜殿下りは的野正八幡宮から八幡馬場を通り、約600m離れた御手洗池(みたらいいけ)の
権現宮を旅所までの御神幸行列です。
御神幸行列は 獅子舞、神官による露払いに続き子供たちに引かれた耶五郎どん、と続く。
山之口弥五郎どん祭り 浜殿下り(はまくだり)山之口弥五郎どん祭り 浜殿下り(はまくだり)
その後、馬方のひく馬駄 二名の巫女、に続き、奉賛会長、保存会長、氏子総代長らが参列。
その後に、二名の猿田彦神、神楽舞人、神社旗、神官、浦安の舞の4名、神輿と続くく
山之口弥五郎どん祭り 浜殿下り(はまくだり)山之口弥五郎どん祭り 浜殿下り(はまくだり)
3基の神輿は 誉田別命(応神天応)、玉依姫命(神武天皇の母)、息長足姫命(神功皇后)、
神輿に続いて子供たちの芸能組、とりの神官の導きにより、氏子総代、各種芸能保存会等が加わる。
山之口弥五郎どん祭り 浜殿下り(はまくだり)山之口弥五郎どん祭り 浜殿下り(はまくだり)

お旅所にてこの日は馬方による馬方節も披露された。
山之口弥五郎どん祭りにて 


神事 / 浦安の舞

神輿入れの神事を行い、三基の神輿を安置、中学生による浦安の舞が奉納される。
神事 山之口弥五郎どん祭りにて  浦安の舞 山之口弥五郎どん祭りにて 


神楽 タチカラ(手力男)

的野八幡宮神楽の奉納。(この日は手力男、双剣舞、田の神舞の三番が舞われた。)
神楽 タチカラ(手力男 ) 山之口弥五郎どん祭りにて 
この後、田の神舞の前に双剣舞が舞われましたが、未掲載です。

神楽(田の神舞)

神楽 田の神舞 山之口弥五郎どん祭りにて 神楽 田の神舞 山之口弥五郎どん祭りにて 
神楽  田の神舞 山之口弥五郎どん祭りにて 神楽 田の神舞 山之口弥五郎どん祭りにて 
田の神舞(たのかんまい・たのかんめ)作神楽は、旧薩摩藩各地に伝わっている神楽の中でもっとも親しまれている舞です。

神楽をもって神事の枠を終了、郷土芸能等の奉納へと続きます。


郷土芸能奉納


 富吉小学校 俵踊り(女子) / 棒踊り(男子)

山之口弥五郎どん祭り 山之口弥五郎どん祭り

向原奴踊り(花木地区) / 乗平矢旗踊り

山之口弥五郎どん祭り 向原奴踊り(花木地区)山之口弥五郎どん祭り  乗平矢旗踊

乗平矢旗踊 (のりひらやばたおどり)
五穀豊穣の祈願、お礼として踊っていたが、若者の徴兵のために途絶えてしまった。昭和50年代に復活の作業が始まったものの、当時の者は戦死、又は高齢のため、なかなかはかどらず、昭和60年に完成し、継承している。

桑原奴踊り

山之口弥五郎どん祭り  桑原奴踊り

桑原奴踊り (くわばるやっこおどり)
「奴踊りと我が家ん木戸口を知らんもんはおらん」と云っているほどこの地方で親しまれてきた小歌踊りである。この奴踊りを見て都城が生んだ上原元師が「薩摩体操」と名付けられたと云う。「二才んおご」が主となって踊った奴踊は「おどいしゃんなら品よくしゃれ品のよい子を嫁にとる」の唄の通り踊り上手も「よかおご」の条件の一つで踊り場は嫁の品定めの場でもあった。

中原太郎踊り / 正近棒踊り

山之口弥五郎どん祭り  中原太郎踊山之口弥五郎どん祭り 正近棒踊り

中原太郎踊り(なかばるたろうおどり)
「三国名勝図会」によると、的野正八幡宮は、和銅三年(紀元710年)に歓請したとあり「2月初卯の日祭りあり此の日には、田鍬初めの謂れとして、牛の形を作り墾田の状をなした」とある。これが太郎踊りであり農家の豊作を祈願するために一家族を舞台として、日頃の農作業を形成し、舞踊化して、的野正八幡宮(丸野神社)の春祭りに奉納し悪魔を払い、五穀豊穣を祈願し、地区民の無病息災と繁栄を願って来た大事な農耕神事であったと伝えられている。
踊りというより農事狂言劇

正近棒踊り(まさちかぼうおどり)
島津藩主が、農民にも武道を教えたときに始まるといわれ、的野正八幡宮に奉納して悪魔を払い五穀豊穣を祈願し、地区民の安全、息災と繁栄を願ってきた農耕神事。

御神幸行列 (的野正八幡宮へ帰る)

山之口弥五郎どん祭り 御神幸行列 (的野正八幡宮へ帰る)山之口弥五郎どん祭り 御神幸行列 (的野正八幡宮へ帰る)







山之口弥五郎どん(やごろうどん)祭りの写真
(宮崎県・一村一祭)

宮崎県都城市山之口町 2008年撮影




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