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霧島神宮(きりしまじんぐう)(鹿児島県霧島市)

霧島神宮は創建が6世紀(欽明天皇の頃)という古い歴史を誇る神社です。
元宮は高千穂峰山頂近くにありましたが、霧島山の噴火によりたびたび火災にあい、次にその西の中腹、そして高千穂河原へ移り、1484年に今の場所へ移って来た。現在の社殿は江戸中期1715年(正徳五年)、第21代藩主島津吉貴公により造営寄進されたものです。
(詳細は下段記載霧島の神社の歴史を参照願います。)
 
霧島神宮の祭神
〔主祭神〕
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)

〔配祀〕
木花咲耶姫尊(コノハナサクヤヒメ)
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
豊玉姫尊(トヨタマヒメ)
鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト) 玉依姫尊(タマヨリヒメ)
神日本磐余彦尊(カムヤマトイハレヒコノミコト)(神武天皇)
霧島神宮の写真_07skj_2_350

 







平成元年 国重要文化財指定 本殿・幣殿・拝殿(合1棟) 登廊下 勅使殿 が重要文化財に指定されています。

霧島神宮の境内には樹齢七百年の老杉が生い茂り、神代の気高さを今に伝えている。
朱塗りのあでやかな社殿、美しい神社は西の日光とも称せられているとか。
紅葉の時期(11月下旬)は参道下の街路樹が見事に色づく。
霧島神宮は霧島六社権現 (西御在所霧島権現社 別当・華林寺) でもある。


霧島神宮 御由緒

 当神宮は天祖天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽(みしるし))を奉持し高千穂峰に天降りまして皇基を建て給うた肇国の祖神<天孫瓊瓊杵尊>をお祀りしているお社です。
旧記によると欽明天皇の御宇(西暦540年)、はじめ高千穂峰のほど近く脊門丘(せとお)に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜(いくせいそう)を経て今から500年前 現在の社地へ御鎮座になりました。いまの御社殿は第二十一代藩主島津吉貴公が正徳五年(1715年) に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐(りんかん)の美をなし、西の日光とも称せられる。特に殿内は漆塗りで二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬帳りが施されている。明治七年二月「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格仰せ出されました。
 畏くも昭和天皇陛下には二度にわたる御親拝を賜っております。平成元年五月 国の重要文化財の指定を受け、海抜500mの此の地からは遥か錦江湾、桜島、開聞岳の眺望が実に雄大であります。高千穂峰(標高1574m)頂上には神代の旧物“天の逆鉾”があり、中岳、新燃岳、韓国岳一帯はつつじ「みやま霧島」で有名です。

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《平成28年初詣情報》
31日午後4時から大祓い式、終了後5時頃より除夜式。元旦午前0時と同2時に社務所前で霧島九面太鼓を奉納。歳日祭は5時半より。元旦〜3日は参拝者にお神酒や甘酒を振舞う。

2015年(平成27年)の紅葉ですが、11月30日現在、紅葉は、まだ見ごろに達してないようです。今年は、例年より大幅に遅れているようです。紅葉する前に枯れて散らなければ良いのですが・・。

霧島神宮の御本殿は江戸時代 正徳5年(1715年)に島津家第21代島津吉貴公により造営され、平成27年(2015年)には造営300年を迎えます。 
平成27年10月には、造営300年の記念大祭の斎行を予定、併せて境内整備等の記念事業が順次行われております。

霧島神宮初詣駐車場地図平成25年も同様です。霧島神宮の位置等の参考資料として掲載。)
平成25年元旦、社務所前広場で、午前0時〜、午前2時〜霧島九面太鼓奉納予定。歳日祭は5時半より。

今年(平成23年)は、温かかったせいか、紅葉がどこも遅いようです。霧島神宮辺りの紅葉の見頃は、例年11月末頃からなのですが、今年の見ごろは12月になってからかも知れませんね。
 以前書いたブログ記事→ 霧島神宮の紅葉 (霧島神宮の紅葉の壁紙が各種サイズあります。)


当サイト内・霧島神宮関連ページのリンク

霧島神宮のさざれ石 山神社・風穴・亀石・性空上人墓・鎮守神社・若宮神社・御手洗川
霧島神宮の背後にある霊峰高千穂峰山頂には「天の逆鉾」(霧島東神社の社宝)が祀ってある。

当サイト内・関連ページ
えびの霧島周辺MAP(地図)リンク&GPS 日向神話の系図 

 


紅葉の霧島神宮参道 (画像は800pix〜1600pixに拡大します)



霧島神宮の紅葉


霧島神宮一の鳥居


霧島神宮 鳥居 -A200-

冬撮影 雪の中の霧島神宮 

霧島神宮の冬景色です。鹿児島は南なので雪とは無縁?と思われがちですが、意外に鹿児島は積雪します。 
もっと写真を見たい方は右ページリンク先にこの時撮影した写真を掲載しております。→ 霧島神宮の冬景色 
雪の霧島神宮冬景色 01雪の霧島神宮冬景色 02

春撮影 霧島神宮の新緑 

紅葉の霧島神宮と同じアングルで新緑の霧島神宮の風景を。 
新緑と、鮮やかな朱色の鳥居とのコントラスト。
霧島神宮の新緑 2009-01霧島神宮の新緑 2009-02

秋撮影 霧島神宮の紅葉 

霧島神宮境内内で撮影したその他の紅葉写真も掲載しております。→ 霧島の紅葉
紅葉のパソコン用壁紙もリンク掲載したブログも是非ご覧ください。 → ブログ記事
霧島神宮の境内には約1100本のカエデ科の木があるそうで、紅葉の名所でもあります。

霧島神宮 紅葉 参道階段霧島神宮 紅葉

新緑につつまれる霧島神宮

霧島神宮は、紅葉の名所でもあるが、新緑も実に美しいです。(後日追加した上段写真も合わせてご覧下さい。)

霧島神宮の写真_07skj_3 新緑霧島神宮の写真_07skj_1 境内霧島神宮の写真_07skj_4

霧島神宮の写真_07skj_6霧島神宮の写真_07skj_7霧島神宮の写真_07skj_5

霧島神宮の写真_07skj_8霧島神宮の写真_07skj_10霧島神宮の写真_07skj_11

霧島神宮 参道01 参道の鳥居霧島神宮 参道02 拝殿前の鳥居

霧島神宮 竜の口から霧島神宮 参拝殿01

霧島神宮 屋根部分
 
霧島神宮 御拝殿正面

霧島神宮の主な行事等

朔日祭(ついたちさい) 毎月1日
月次祭(つきなみさい) 毎月19日
歳旦祭 1月1日
初日供祭(はつにっくさい) 1月2日
元始祭 1月3日
散籾祭(うちまきさい) 2月18日(旧暦1月1日)
御田植祭 3月3日(旧暦2月4日)
狭名田の長田御田植祭(さなだのおさだおたうえさい)6月第一日曜
大祓式 6月30日、12月31日
南九州御神楽 8月最終土曜
例祭 9月19日
除夜祭 12月31日

 

霧島神宮の枝垂れ桜(シダレザクラ)


春には拝殿近く、拝殿後部の登り廊下横のしだれザクラが咲きます。
他の写真もあるページ → 霧島神宮の枝垂れ桜(シダレザクラ)

霧島神宮の枝垂れ桜(シダレザクラ)01霧島神宮の枝垂れ桜(シダレザクラ)02
下記 霧島神宮の画像二枚は1600pix拡大画像 (ブロードバンド向き・新しいウインドウで開きます)
霧島神宮 拡大1600pix 01 -A200-霧島神宮 拡大1600pix 02 -A200-

霧島神宮のご神木

霧島神宮 ご神木
右の写真は 霧島神宮境内のご神木です。1484年に社殿が現在地に再興される前からあるといわれ、樹齢約800年と推定される巨木です。
幹周:6.8m 樹高:38.2m 霧島スギとも呼ばれているそうです。
800年前と言うと・・鎌倉時代なのですよね、凄いことです!
近年、幹の中に空洞ができて強度が低下。強風の影響もあり、東側に10度程度傾いているようで、2013年4月に枝の重みを減らす為、5トン分の枝を伐採したようです。
この写真より、若干スリムになっているかも知れません。  → 霧島神宮の御神木 大杉(霧島メアサ)

余談ですが・・・
樹齢800年の杉と言えば・・
宮崎県椎葉村、十根川神社の境内にも同じく樹齢800年のもっと巨大な杉があります。
国指定重要天然記念物に指定された、幹周19.0m、樹高54.4mもある 日本でも最大規模の巨大杉は 「八村杉」と名づけられております。

 

坂本竜馬、おりょう新婚旅行記念  


霧島神宮 坂本龍馬・おりょう今からちょうど130年前、慶応2年(1866年)日本の歴史の大転換期に坂本龍馬と妻おりょうは、薩摩(鹿児島)に訪れています。
京都伏見の寺田屋事件(1866年1月23日未明)で幕史に襲われ九死に一生を得た龍馬は、妻おりょうとともに霧島の山深く入り温 泉で傷を治しながらその足で霧島山(高千穂)の峯にある天の逆鉾を見ようと妻おりょうと高千穂登山をしています。
姉乙女への手紙によりますと「天の逆鉾」を見て天狗の面に似ていると二人で微笑んだと記されています。
下山途中は一面にみやまきりしまが咲きほころび美しい情景であったそうです。
またその足で霧島神宮をお参りし、大きな杉の木もあるが御神殿の建物にも奥深いものがあると感じながらここに一泊しそこから 霧島の温泉に戻り4月12日鹿児島へ帰っているようです。
坂本龍馬が鹿児島へ訪れた行程は88日間と示され、現在の新婚旅行とも言われています。
このことは龍馬が姉乙女宛へ送ったと言われる手紙から抜粋し要約したものです。
参考文献(京都国立博物館蔵より)1996.12 霧島町 

以上 霧島神宮現地案内版より引用 写真はその案内板と 坂本龍馬・お龍(おりょう)




霧島神宮(西御在所霧島権現社 別当 華林寺)

明治期の神仏分離令以前の霧島神宮  薩摩藩編纂の三国名勝図会より (拡大します) 西御在所霧島権現社社 三国名勝図会より 西御在所霧島権現社社 三国名勝図会より 


西御在所霧島六所権現 すなわち霧島宮は、田口村霧島山西側の中腹にある。
欽明天皇の頃に創建したと言い伝える。後に山上から噴火し(延暦七年〈788〉七月の噴火とする説がある)、寺社が焼亡してから年月が経った。最初、上古の神社は現在の社地から東一里十町に当たる霧島山の峯である矛峯と火常峯(西峯)との中間、脊門丘にあったが、天暦年間に性空が脊門丘から現在の地に神社を移して六所権現と号した。それからおよそ二百八十年を経て、文暦元年甲子〈1234〉十二月二十八日に山上からまた噴火し、神社・寺院および什宝、文書等をことごとく消失した。その後二百五十年ほどの間は、神社・寺院は共に廃され、ただ仮宮のみがあった。文明十六年甲辰〈1484〉に兼慶法印が往時の社地を入手することを得て、社殿を建立して六所権現を遷宮し、往時の壮麗さに復した。だから現在の地は村上天皇の時、性空が神社を遷した場所である。社殿が脊門丘にあった時は、高千穂神社と称しただろうかという。(三国名勝図会) 文・引用元

華林寺跡

霧島神宮の別当寺、華林寺は、霧島山錫丈院華林寺といいました。
初めは慶胤(けいいん)によって背門丘(せとお・高千穂峰と御鉢の中間)に開山、中興開山は性空上人(瀬多尾越・現在の高千穂河原)で、その後、280年間(21代)天台宗が継承。僧兼慶以後は真言宗となり以来380年余りにわたって廟務をつかさどられました。
慶応2年(1866)神仏混淆禁止令および明治2年(1868)神仏分離令が出され、薩摩藩においては廃仏毀釈を徹底して実施し神社と寺院を祭ることを禁止したので廃寺となりました。
華林寺跡は現在、私有地となり、雑木林となっています。 (霧島町郷土誌より 霧島市教育委員会)

霧島の神社の歴史を簡単に・・・


高千穂峰山頂より 御鉢・高千穂河原・ 欽明天皇の時代(6世紀 西暦530年〜568年)、矛峰(高千穂峰)と火常峰(御鉢)の鞍部、脊門丘に社殿が造られました。
高千穂峰に対する「山岳信仰」から始まった神社であろうと、言われています。 これが霧島の神社の始まりです。

※右の写真は、高千穂峰山頂より、脊門丘・御鉢・高千穂河原方面を見たものです。拡大してご覧ください。(2011年の新燃岳爆発噴火以前に撮影したもの)

この霧島の元宮について、江戸時代、薩摩藩により編さんされた「三国名勝図会」では、「高千穂神社と称しただろうかという。」とも書かれています。

活火山と隣り合わせの鎮座故、霧島山の噴火により、たびたび炎上します。(霧島の神社の歴史は、ある意味噴火の歴史でもあります。)

延暦7年 3月4日 (788年4月18日)の御鉢噴火を、「続日本紀」はこう書き記している。

七月巳酉の日、太宰府から報告、「去る三月四日戌の刻、大隅国の曽於郡曽乃峯で火炎が盛んに上がり、響きは雷のようであった。亥の刻におよんで火光はようやく止まり、ただ黒煙だけが見えるようになった。そしてその後、砂が降り、山頂下五・六里は砂石が積もり、二尺にも及んでいるようだ。その色は黒い」。

この時の噴火により、高千穂峰と御鉢の間「脊門丘」にあった霧島元宮は焼失しました。

天暦年間(947年〜957年)、性空上人は、現在の高千穂河原(かつては瀬多尾越と呼ばれていた)に社殿を遷します。
しかし、この社殿も文暦元年(1234年)御鉢噴火で、焼失しました。
文暦元年12月28日(1235年1月25日)の噴火は被害も大きく、霧島の神社・寺院および什宝、文書等はことごとく消失したようです。

高千穂河原の社殿焼失の為、長尾山 東霧島神社(現在の宮崎県都城市高崎町)に遷座

その後、文明16年(1484年)、島津第11代当主島津忠昌の命により、社を東西に分け、東社を、現在の宮崎県高原町の霧島東神社、西社を、ここ鹿児島県霧島町の霧島神宮として建立したそうです。

現在の霧島神宮社殿は、江戸中期 正徳五年(1715年)、第21代藩主島津吉貴公により造営寄進されたものです。

関連ページ 霧島神社総数諸説(三国名勝図会より)もご覧下さい。

*三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)
三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)は、江戸時代後期に薩摩藩が編さんした薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書。

*性空上人(しょうくうしょうにん) 〔延喜10年(910年)〜 寛弘4年3月10日(1007年)〕
平安時代 村上天皇の頃、天台法華仏教を奉じ、修験道の信仰を確立。霧島でも修行、霧島山信仰を体系づけたといわれております。
性空上人については、下段関連記事を参照してください。

古宮址(ふるみやあと)天孫降臨神籬斎場 について


古宮址(ふるみやあと)は、先に書いた、霧島神宮・霧島東神社の元となる宮があったところです。
霧島道路を8K程?登ったところにある高千穂河原駐車場(有料)から数百m程歩いたところにあります。(現在の秩父宮記念碑付近にあったようです。)
高千穂河原は、高千穂峰への登山道の起点の一つです。
駐車場からここまでは、坂も殆どありませんので、難なく行く事が出来ると思います。

古宮址は、「天孫降臨神籬斎場」として、1940年(昭和15年)、皇紀2600年記念事業の一つとして、整備。
毎年11月にはここで御神火祭の行事が行われます。

関連ページ → 天孫降臨神籬斎場(てんそんこうりんひもろぎさいじょう)古宮址(ふるみやあと)の写真

*神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるものです。
(詳細はwikipedia参照)

霧島神宮 古宮跡 01霧島神宮 古宮跡 02霧島神宮 古宮跡 03

周辺はに 5月中旬よりミヤマキリシマが咲き出します。


霧島神宮古宮址 ミヤマキリシマ 01霧島神宮古宮址 ミヤマキリシマ 02霧島神宮古宮址 ミヤマキリシマ 03


霧島神宮 古宮跡 パノラマ
鳥居の奥に見える山は霧島連山中岳です。
 
性空上人像 (霧島東神社)

霧島六社権現(六所権現社)

霧島には霧島山を囲むようにして霧島六社権現と総称される一連の神社がある。
霧島神宮(西御在所霧島権現社 別当・華林寺)(鹿児島県霧島町)、をはじめ、東霧島神社(つま霧島と読みます)(東霧島権現社 別当・勅詔院)(宮崎県都城市高崎町)、狭野神社(狭野大権現社 別当・神徳院)(宮崎県高原町)、霧島東神社(霧島東御在所権現社 別当・錫杖院)(宮崎県高原町)、霧島岑(みね)神社(霧島中央権現宮 別当・瀬多尾寺)(宮崎県小林市)
(夷守神社(雛守権現社 別当・宝光院) は霧島岑神社へ合祀の為現在は五社となる。)
*“権現名”については、「三国名勝図会」記載の呼称を記載。

 これらの神社を六社権現として*整備・再建したのは十世紀、村上天皇の頃 天台法華仏教を奉じ、修験道の信仰を確立した性空上人(しょうくう上人)でした。
性空上人は霧島でも修行、霧島山信仰を体系づけたといわれております。
*各神社の創建自体はさらに時代をさかのぼります。各ページを参照願います。
霧島六社権現(五社の写真をダイジェスト風に掲載)
霧島神社総数諸説(三国名勝図会より)
霧島六社権現の地図(Google Mapで作成したもの。)

 

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霧島神宮(きりしまじんぐう)(鹿児島県霧島市)

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