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霧島東神社 Kirishima Higashi shrine 霧島東神社 Kirishima Higashi shrine Kirishima Higashi shrine

− 霧島東神社 Kirishima Higashi shrine −

霧島東神社(宮崎県高原町鎮座)
Kirishima Higashi shrine

三国名勝図会より「霧島東御在所権現社 別当・錫杖院 三国名勝図会より「霧島東御在所権現社 別当・錫杖院

− 三国名勝図会より「霧島東御在所権現社 別当・錫杖院 −

霧島東神社 御由緒

霧島東神社は、高千穂峰への中腹、標高500メートルの高台に鎮座。創建は 第10代 崇神天皇の代、と言われ、ニニギノミコトが天孫降臨された際に、初めて祖先の神々を祀ったところと伝えられている。

〔主祭神〕 伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)
〔配祀〕 天照大神(アマテラスオオミカミ)・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)・天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)・彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)・神日本磐余彦尊(カムヤマトイハレヒコノミコト)(神武天皇)

霧島東神社は、噴火を繰り返す自然の厳しさの象徴として山岳信仰の場としても日本有数の霊場であり、霧島で修行をする修験者たちの拠点となったところ、性空上人が開いた霧島六所権現のひとつ(霧島東御在所権現社 別当・錫杖院)となっていた。

現地案内板の説明文

伊邪那岐尊(イザナギノミコト)・伊邪那美尊(イザナミノミコト)を主祭神として祀り、第十代崇神天皇の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建されたと伝わる。天暦年間(947〜957)に天台宗の僧、上空上人が神社のかたわらに別当寺である、錫杖院を建立し、霧島六社権現のひとつとして霧島山で神意仏心を崇める修行を行う修験者たちの拠点となった。当時は霧島山大権現東御在所之宮と呼ばれ、霧島修験の興隆に伴い社寺ともに栄えた。
度重なる霧島山の噴火により、復興造営を重ねており、現在の社殿は享保12年(1722)の造営により、幾度かの改修を経て今に至る。殿内奥には雌雄一対の龍柱が祀られ、正面には寛文6年(1666)薩摩藩主島津光久公寄進の「東霧島坐 [霧島の東に坐(いま)す]」の扁額が納められている。

〔例大祭〕11月8日・9日
 

霧島東神社 交通アクセス・地図等の情報

鎮座地:〒889-4414 宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田6437
地図(駐車場の位置):GoogleMapMapion
マップコード(227 190 566*57)
緯度経度:N=31.53.19 E=130.57.56(日本測地系)

国道223号(霧島バードライン)沿いにある「御池展望台」の100m程北側に「霧島東神社」の案内標識が出ていますのでここを曲がり向かいます。御池野鳥の森公園キャンプ場の分岐を過ぎると急坂となり、神社付近の最後の方はかなりの急坂となります。
記紀編さん1300年 神話のふるさとみやざき 温故知新ものがたり 宮崎県ロゴ
記紀編纂1300年記念ページ

 


「建国記念の日」冠雪した 高千穂峰

高千穂峰山頂は霧島東神社の境内(飛び地)です。

冠雪した高千穂峰 冠雪した高千穂峰

− 冠雪した高千穂峰 −



神門より拝殿下の参道

神門より拝殿下の参道 霧島東神社 神門より拝殿下の参道 霧島東神社

− 神門より拝殿下の参道 −


参道より拝殿

参道より拝殿 霧島東神社 参道より拝殿 霧島東神社

− 参道より拝殿 −



 
霧島東神社鳥居
− 鳥居 −
霧島東神社 手水舎
霧島東神社 森の中の参道
− 森の中の参道 −

 
 
性空上人開山石碑
霧島東神社 参道階段
− 参道階段 −
霧島東神社 御神木と神門
− 御神木と神門 −

 
 
拝殿より見下ろす参道
霧島東神社社殿
扁額 東霧島坐

 
 
護摩堂
− 護摩堂 −
別当先賢慰霊殿
祓川・旧参道
− 祓川・旧参道 −

 



祓川神楽(高原の神舞かんめ

毎年12月第二土曜〜日曜に、不浄を祓うために真剣を使って舞う祓川(はらいがわ)神楽(神舞)が霧島東神社社人達により祓川神楽殿で奉納されます。

祓川神楽(霧島東神社)は、狭野神楽(狭野神社)と共に「高原の神舞(かんめ)」として、平成22年、国の無形民俗文化財に指定されました。
祓川神楽殿は、祓川地区にあり、霧島東神社とは場所が違います、奉納場所は上記リンクを参照願います。
 
祓川神楽(高原の神舞)
祓川神楽(高原の神舞)
− 祓川神楽(剱) −
祓川神楽(高原の神舞)

 
この写真を撮影した年は、古事記編纂1300年の年で、特別に外に神庭が設えられた貴重な年でした。

天の逆鉾(あまのさかほこ)

高千穂峰に立つ「天の逆鉾」は霧島東神社のご神宝。

高千穂峰に立つ「天の逆鉾」は霧島東神社のご神宝 高千穂峰に立つ「天の逆鉾」は霧島東神社のご神宝

− 高千穂峰に立つ「天の逆鉾」は霧島東神社のご神宝 −

高千穂峰の頂には、霧島東神社の社宝でもある、「天逆鉾(あまのさかほこ)」があります。

霧島東神社にあった説明文

高千穂峰(1574m)の山頂にあり、霧島東神社の社宝として祀られている。伊邪那岐尊(イザナギノミコト)・伊邪那美尊(イザナミノミコト)が高天原から鉾を差しおろし、かき混ぜて作った国土に、逆さに突き立てたものと使えられる。また、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)から授かった鉾ともいう。
実際に祀られた時期は明確ではないが、霧島山の修験者たちが神話にならって祀ったものとされ、少なくとも江戸時代にはその存在は広く知られていた。 霧島山に対する信仰の対象であるとともに戦前までは雨乞いの神ともされ、鉾の前で祭儀を行っていたという。

様々な伝説

前記、天上界の「イザナギ」「イザナミ」の夫婦神が日本列島を作るために、大地に天沼矛を突き刺し、かみ混ぜた。この天沼矛が天逆鉾であるという説以外に、高千穂峰に天孫降臨した神「ニニギ」が持っていた鉾が天逆鉾であり、国家平定のために使われた後、二度と振るわれることのないようにとの願いをこめて鉾を高千穂峰に突き立てたという説など、他にも様々な説があるようです。
 
霧島東神社
− 霧島東神社 −
霧島東神社
− 霧島東神社 −

 

坂本龍馬が姉宛てに送った「天の逆鉾」の手紙の絵

坂本龍馬が妻のお龍と高千穂峰を訪れた際、天の逆鉾引き抜いて見せたというエピソードがあります。
このエピソードは龍馬自身が手紙で姉に伝えており、手紙も桂浜の龍馬記念館に現存しています。
(今回掲載した画像は、延岡市「南洲翁寓居跡」展示館の展示物(現代訳した複製)を撮影したものです)
 
坂本龍馬の手紙(天の逆鉾の絵)
坂本龍馬の手紙(天の逆鉾の絵)

 
 

現存する天逆鉾はレプリカ

坂本龍馬の手紙の絵を見て頂くと、現在の三又の天の逆鉾と違うことがわかります。
当時、刃の部分は噴火によって消失しており、柄の部分だけだったようです。
現在の刃の部分は、幕末以降に作られたレプリカのようです。
刃の部分は回収され、島津家に献上、近くの荒武神社(都城市吉之元町)に奉納されたようですが、その後、様々な人手を転々と渡り、現在は行方不明となっているようです。
図は、江戸時代に書かれた「三国名勝図会」の荒武神社の項目、逆鉾挿絵の部分です。
三国名勝図会・荒武神社

 
 

石の天逆鉾

その昔、一人の大男が高千穂峰から天逆鉾を担ぎ、麓の祓川まで降りてきた事件があったそうです。
祓川の人々は男を問い詰め、なんとか逆鉾を取り戻しましたが、突如、その男が行方不明になりました。
人々は逆鉾が自らの意思で降りてきたと思い、逆鉾は山頂に返しましたが、石で複製の逆鉾を作り、それをしばらく祓川でお祀りしていたようです。
現在、この石の天逆鉾は霧島東神社の境内にひっそりと鎮座し、当時の篤い信仰心をうかがい知ることができます。
天之鉾御下降記念

 

霧島東神社 宮司のお話

天逆鉾は当神社の社宝であり、月に一度は高千穂峰に登り、天逆鉾を礼拝します。
現在は、史跡というイメージを持っている方が多いようですが、修験道の盛んだった時代には山伏達が修行の一環として
礼拝していました。また、麓の人々は雨の少ない時期になると天逆鉾の前で雨乞いの祭りをしていたそうです。
今では、登山客も安全を祈願します。
このように時代や人によって天逆鉾に対する思いは違いますが、感謝し、崇拝する気持ちは同じです。
大切なのは天逆鉾へ対する人の心なのです。   / 霧島東神社 宮司 黒木将浩(まさひろ)さん


 *上記「石の天逆鉾」「霧島東神社宮司のお話」は、高原町広報誌「広報たかはる」(H22/8/1NO.592)より転載させていただきました。


高千穂峰登山について

高千穂峰へ安易なハイキング気分で登らないで下さい。
高千穂峰は、過去に滑落などで死者が出ている事も十分認識しておいてください。
天候調査や、服装(山の天候は急変します気温も低くなります。)所持品等十分気をつけてください。
一般的な高千穂峰への登山道は、鹿児島県の「高千穂河原」からです。ガレ岩登りの御鉢まではそうでもないですが、高千穂峰は積もった火山灰 ザレでかなり滑る難所です。(特に下りに注意が必要です。)
霧島東神社の近くにも登山口がありますが、登山経験者向きです。梅雨、夏場などは「山ヒル」にも注意が必要です。
高千穂峰に関しては、以下ページもご覧ください、
  高千穂峰 高千穂峰登山

性空上人の石像


性空上人の石像 性空上人の石像

− 性空上人の石像 −
 
この尊像は、性空上人が入寂されてより一千年の御遠忌に当たる平成十八年、上人の遺徳を偲ぶ善男善女の奉賛により建立されたものである。
尊像の右腕に杖つく錫杖は、金剛力により衆生の塵を払い人々を悟りに導く智杖であり、錫杖の音を聞くことによって一切の衆生は悪をやめ、善を修し悟りに達するといわれる。
また左掌に掲げる独鈷は、人間の心中の煩悩を払い本来の姿を現すための法具であり、性空にとっては見仏が叶わぬ時は両眼を盲にする悲願の象徴であった。
ただ直向に道を求めて止まぬ性空の若き日の英姿には、仰ぎ見る人に明日を生き抜く力を与え続けるものがある。

平成18年発刊 霧島山東御在所縁起 霧島東神社由緒記 / 著者 楠本正  発行 霧島東神社より引用
性空上人 像
− 性空上人 像 −


 

錫杖院しゃくじょういん

錫杖院は、正式名を霧島山大権現東光坊花林寺錫杖院と称された、霧島山東御在所両所権現社(現在の霧島東神社)の別当寺である。
霧島六所権現は、10世紀半ば、比叡山の性空上人により、霧島山の周囲に寺社が配置された。錫杖院もその一つで、東御在所権現社と共に栄えたが、文暦元年(1234)の霧島山の大噴火により焼失した。その後、文明18年(1468)薩摩国の島津忠昌が真言僧を遣わして復興させ、一時期日向国の伊東氏に支配された他は島津氏の統治下に入った。
高千穂峰や御池も錫杖院の境内とされ、峰に登る際は、必ず当寺に参詣するなど、社寺共に繁栄していたが、慶応4年(1868年)4月、廃寺となった。

 

史跡 錫杖院墓地

この墓地には、錫杖院代々の住持が眠り、その墓石に自然石を用いているのが特徴である。 その他、錫杖院中興の祖である真言僧 円政の墓と思われる五輪塔や、伊東 方の修験者として当地を支配した池郷民部の墓などがある。
史跡・錫杖院墓地


 

霧島六社権現(六所権現社)と性空上人


霧島には霧島山を囲むようにして霧島六社権現と総称される一連の神社がある。
霧島神宮(西御在所霧島権現社 別当・華林寺)(鹿児島県霧島町)、をはじめ、東霧島神社(つま霧島と読む)(東霧島権現社 別当・勅詔院)(宮崎県都城市高崎町)、狭野神社(狭野大権現社 別当・神徳院)(宮崎県高原町)、霧島東神社(霧島東御在所権現社 別当・錫杖院)(宮崎県高原町)、霧島岑(みね)神社(霧島中央権現宮 別当・瀬多尾寺)(宮崎県小林市)。(夷守神社(雛守権現社 別当・宝光院) は霧島岑神社へ合祀の為現在は五社となる。)
*“権現名”については、「三国名勝図会」記載の呼称を記載しました。

これらの神社を六社権現として*整備・再建したのは十世紀、村上天皇の頃 天台法華仏教を奉じ、修験道の信仰を確立した性空上人(しょうくう上人)でした。
性空上人は霧島でも修行、霧島山信仰を体系づけたといわれております。
*各神社の創建自体はさらに時代をさかのぼります。各ページを参照願います。

 霧島六社権現(五社の写真をダイジェスト風に掲載)
 霧島神社総数諸説(三国名勝図会より)
 霧島六社権現の地図(Google Mapで作成したもの。)




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霧島東神社(宮崎県高原町鎮座)

- ページ 更新 2020/6 -
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