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伊東祐堯の墓 (清武町指定史跡)

伊東祐堯の墓の場所、地図(マップ)

場所: 宮崎県宮崎市清武町大字船引? 地図(マップ): Map 
伊東祐堯の墓
伊東氏は工藤祐経を祖とし、祐経の子祐時から伊東姓を称した。
元来伊豆にいて日向地頭職を任じられていたが、建武2年(1335)、六代祐持が、都於郡(トノコオリ)(現西都市)に下向してから日向にその基盤を築いた。
文安3年(1446)都於郡(トノコオリ)城主となった11代祐堯は武威を奮って四方に侵攻を開始、日知屋、門川、清武、田野の伊東氏族を攻めて勢力を吸収、戦国時代に突入すると日向平定をめざし、下向前からの日向勢力である土持氏を攻撃し、遠く県庄(延岡)へ圧迫して、島津氏を対峙するまでの強力な勢力となった。
文明17年(1485)飫肥の島津攻撃に出陣する子。祐国を見送った後、ここ清武城で病死した。
伊東氏にとって日向に強力な地盤を築いた英主である。

祐立
伊東家 略系図 祐堯
祐国
尹祐
      ┌── ──┬── ──┤      
祐吉
義祐
祐光
      ┌── ──┬── ──┤      
町上 祐兵 義益
祐益
(マンショ)
祐慶 義賢

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墓石の配置図

祐吉墓?

尹祐の子、
天文5年(1536)
宮崎城で戦死
祐国墓

祐堯の子で飫肥城攻撃の時、
文明17年(1485)楠原で戦死
祐国祐堯供養塔

大永4年(1524)建立
祐堯墓

子祐国の飫肥城攻撃を見送り、
文明17年(1485)清武城で病死、77才
尹祐墓

祐国の子、大永3年(1523)死亡
         
宮田藤五郎墓

伊東義祐〜義益までの忠勤の武将永禄7年(1564)戦死
    宮田安芸守墓

伊東義祐の家臣永禄5年(1562)島津の飫肥攻撃で戦死

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階段





伊東祐堯の墓(清武町指定史跡) の写真 


文章は現地案内板(清武教育委員会)を参照の上、記載しました。

清武の大クスのある船引神社はすぐ近くです。
安井息軒旧宅も車で5分程度の距離です。

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