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都於郡城跡(とのこおり城跡)(西都市)で撮影した写真

国指定史跡 日向一円を掌握した伊東氏の城跡 伊東マンショの生誕地でもある。

-都於郡城跡(とのこおり城跡)の場所

 住所:宮崎県西都市大字鹿野田(都於郡) 地図 MAP現地案内板を撮影したもの
 

-都於郡城跡(とのこおり城跡)


中世の城址としては九州屈指とも言われる都於郡(とのこおり)城は鎌倉時代の建武2年(1335年)、伊豆から都於郡に下向した伊東氏(祐持・すけもち)が高屋山上陵(ヒコホホデミノミコト)伝説が伝えられる都於郡の地に築いた城です。
242年間、日向の国を治めた伊東氏の居城として栄華を極めました。

都於郡城は標高100メートルの高台にあり、周りを急峻な断崖に囲まれ、西側の三財川が外堀の役割を果たしました。本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸、西ノ城、奥ノ城、等があります。
この内城としての五城郭は、遠くから見ると船が浮いているように見えたことから、別名“浮舟城(うきふねじょう
”と呼ばれていました。
この五城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城をとりまくように築城されています

また各曲輪(くるわ)の縁辺部には土塁(どるい)が構築され曲輪と曲輪の間には空堀もつくられて、外敵防御体制をとるようになっています。

 南北朝以来、242年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握した伊東氏も、元亀3年(1572年)木崎原合戦(えびの市)で島津軍に敗れ次第に勢力を落とし、5年後の天正5年(1577年)12月(伊東三位入道義祐の時代)、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後におちのびて行くことになり、伊東氏の栄華は終わりをつげることになります。

右図は 伊東氏四十八城のを表した地図です。(現地案内板を撮影)
伊東氏の全盛期にはその勢力圏が日向全地域に及び、都於郡城を本城として佐土原・宮崎・穂北等の48城を支配しました。


 春は花 秋は紅葉に 帆を上げて 霧やかすみに 浮舟の城

都於郡城跡

-本丸跡 Main Fortress (Hon Maru) Ruins

伊東氏は都於郡城(トノコオリ城)を拠点に日向一円を掌握しましたが、その中心部にあたる本丸の一部分について発掘調査を行いました。 その結果、多数の柱穴が検出され、伊東氏が在城した240余年間、建造物が何回となく建築補修された事等が考えられます。
また16世紀前半頃に輸入されたと思われる中国製の磁器片が多数出土していますが、この時期は10代城主伊東三位入道義祐の時代にあたり、義祐が飫肥方面に勢力を伸ばし、南方貿易に尽力した結果、このような中国磁器類が流入したものと推測されます。

都於郡城(とのこおり城) 本丸跡都於郡城(とのこおり城) 本丸跡 伊東マンショ慰霊碑等が並ぶ

都於郡城(とのこおり城) 高屋山上陵(ヒコホホデミノミコト)伝説地 都於郡城(とのこおり城) 本丸跡

都於郡城(とのこおり城) 本丸跡都於郡城(とのこおり城) 本丸跡


-曲輪(くるわ)Fortification Construction

曲輪(くるわ)Fortification Construction
城のひとつの区間をいい、中世の山城では傾斜地を削平して造りだします。
削平の手間を省いて傾斜地を残す場合もありますが、たいていは高い面を削った土を低い面に盛りあげて水平にし、その周縁に土塁(どるい)を築くことがあります。

土塁がなくても崖端を整えて急傾斜の下降壁面を造ります。
また、平城では濠を掘って、その土で内側に土塁を築き、余土を内部に盛って、外部より高い平場を造ります。

このように周囲から進入し難く加工された平場を曲輪と総称します。 
二ノ丸跡 Second Fortress(NiNoMaru)Ruins

-二ノ丸跡 Second Fortress(NiNoMaru)Ruins


二ノ丸は本丸と空堀を隔てた西側に位置、五城郭の中で最も古い時期に築城されたものと思われます。

二ノ丸の南側には高いところで約2mの土塁がほぼ原型をとどめていますが、伊東氏の時代には二ノ丸全体に巡らされていたと考えられます。

本丸が二ノ丸と比較して一段低い位置にあることから二ノ丸が中心的な戦略拠点となっていたのではないかと推測されます。

-三ノ丸跡 Third Fortress(SanNoMaru)Ruins

三ノ丸は都於郡台地の西北端にあり、三方断崖をなし、山麗には三財川が流れて自然の外濠をなしています。
西ノ城と同様ものみの役割を果たしていたと思われます。
また伊東氏四十八城と連絡するための狼煙台(のろしだい)があった場所ではないかと推測されます。

都於郡城(とのこおり城) 三ノ丸を望む都於郡城(とのこおり城) 三ノ丸

-西ノ城跡 West Fortress(NishiNoJyo)Ruins

空堀を隔てて三ノ丸の南側にあり、眼下に三財地区全体が見下ろされます。
なお、遥かに東諸県地方も望むことができ、三ノ丸と共に眺望絶佳であります。
別名 斤候(ものみ)城とも伝えられ、外敵からの進入に備えての城であったのではないかと思われます。

都於郡城(とのこおり城) 空堀都於郡城(とのこおり城) 西ノ城跡
 完全に逆光で写真で見る景色はいまひとつです。
都於郡城(とのこおり城) 西の城よりの眺め都於郡城(とのこおり城) 西ノ城よりの眺め 2

 
奥ノ城跡 Ladies'Quarters(OkuNoJyo)Ruins

-奥ノ城跡 Ladies'Quarters(OkuNoJyo)Ruins


本丸の北方には間道と併用した空掘を挟んで奥ノ城があります。

ここは城主一族の大奥として奥方や侍女をはじめ家族の住居でありました。

天正5年(1577年)12月落城の際には一族は家臣と共にこの奥ノ城から豊後の方に落ちのびて行きました。

-天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ) 伊東マンショ

都於郡城落城後、豊後への落人の中に伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショが加わっておりました。
マンショはその後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見した後、8年5ヶ月の長旅を経て天正18年(1590年)長崎に帰ってきました。

日本人として初めて「日本国の王子」としてヨーロッパの桧舞台に立ち、立派に外交の使命を果たした彼等の数々の偉業が、歴史学者によって明らかにされたのは、明治になってから、また、伊東マンショが西都の都於郡出身であることがわかったのは昭和になってからとの事です。

都於郡城本丸跡にある伊東マンショの像

伊東マンショ 像 01伊東マンショ 像 02




説明文は現地案内板等を参考に記載した。


都於郡城跡(とのこおり城跡) 宮崎県西都市 


2008・10



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