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 「子持家形埴輪」(埴輪 子持家 : 国重要文化財)

西都原古墳発掘100年 西都原考古博物館開館10周年記念特別展にて撮影

特別展 「西都原の逸品たち」 2014年5月19日(土)〜6月15日(日) にて撮影した 「子持家形埴輪」(埴輪 子持家 : 国重要文化財)の写真です。
「西都原の逸品たち」では、国宝「金銅馬具類」、重要文化財「埴輪子持家埴輪船」等、全国各地に所在する西都原古墳群(正確には周辺含む)出土の資料を一堂に集めて展示されました。
■ 子持家形埴輪と西都原古墳群で撮影した夕景を合成して創ったイメージ 
〔 子持家形埴輪と西都原古墳群で撮影した夕景を合成して創ったイメージ 〕


 「子持家形埴輪」(埴輪 子持家 : 国重要文化財) 5世紀

 

「子持家形埴輪」(子持家)


西都原古墳群、男狭穂塚、女狭穂塚の「陪塚」とみられる170号墳より発掘したもので、主屋の入母屋造伏屋建物の4面中央に、共通の器台部をもつ柱だけの開放的な構造の小型付属屋が付く、五軒の家が組み合わさってできている稀少な造形の家形埴輪です。
大正元年に、170号墳から発掘された時点では、埴輪は破片となっており、形状は不明でしたが、1932年(昭和7年)頃から東京帝室博物館(現東京国立博物館)において復元が進められ、1940年(昭和15年)に同博物館の列品に編入、1958年(昭和33)年、国重要文化財に指定されました。 この埴輪は、全体の3割程度の破片より復元されたものだそうです。

大正初年の発掘調査以降、子持家形埴輪(埴輪 子持家)、舟形埴輪は長い間、西都原古墳169号墳(飯盛塚)からの出土とされてきましたが、2004年の調査により170号墳(雑掌塚)出土である事が解かりました。

現在、実物は東京国立博物館が所蔵しておりますが、2014年4〜6月に西都原考古博物館で開催された特別展に、同古墳より出土された「舟型埴輪」(国重要文化財)と共に10年ぶりに展示されました。 以下は、その際撮影した写真です。

■ 子持家形埴輪 西都原古墳群 170号墳出土 01






■ 子持家形埴輪 西都原古墳群 170号墳出土 02

■ 子持家形埴輪 西都原古墳群 170号墳出土 03

■ 子持家形埴輪 西都原古墳群 170号墳出土 04







■ 子持家形埴輪 西都原古墳群 170号墳出土 05



子持家形埴輪、舟形埴輪は、10年前に西都原考古博物館が開館した際に行われた特別展「遺物たちの帰郷展」から、丁度10年ぶりの「帰郷」となりました。 10年ぶりの再会でした。

実物にも劣らない程の資料的価値の複製品(レプリカ)

西都原考古博物館に常設展示してある、子持家形埴輪、舟形埴輪(はにわ)は、残念ながら復元品(レプリカ)ですが、忠実に再現していおり、実物にも劣らない程の資料的価値を持っているようです。 
以下は、みやざき考古楽 文:東憲章( 県教育庁文化財課 )より引用。
引用:県立西都原考古博物館では、開館に合わせて子持家形埴輪のレプリカを作製した。
県総合博物館や旧西都原資料館がそれまで保有していた複製品は、見取りによる摸刻であったのに対して、考古博物館が作製したものは、実物から直接に型取りをして作製したレプリカであり、形状や寸法はもちろんのこと、埴輪表面に見られる小さな傷や小石の状況まで正確に写し取ったものである。樹脂で作られている以外は、実物と見分けがつかない程の精度であり、実物では困難な埴輪内部の状況等も詳細に観察できうる点では、実物にも劣らない程の資料的価値を持っていると言えよう。
 / 引用おわり
以下はネット検索中に、たまたま見つけたものですが・・
常設展示中の子持家形埴輪のレプリカはここで作られたようです。 → 外部リンク 

 

早すぎた発見 不運招く (宮崎日日新聞記事より)

立派な県立西都原考古博物館も出来たことですし、以前からなんとか西都原に戻ってきてほしいなぁ・・と、思っていたのですが、先日、2014年6月16日付、宮崎日日新聞に興味深い関連記事がありました。以下に一部引用させていただきます。
※ 新聞紙面記事画像は著作権上問題ありますので、拡大しません。

引用はじめ (前略)
宮崎日日新聞記事 イメージ二つの埴輪は、1912年(大正元年)から1917年(同6年)まで同古墳群で実施された発掘調査により出土し
た。その様子は、県総合博物館が1988年(昭和63年)、西都原古墳群の発掘75周年を記念して開いた特別
展の図録などに詳しい。
 調査は、当時の有吉忠一知事が提唱。最大の目的は「国史の源泉は実にこの地に発する」 (大正15年刊行「西都原古墳調査報告」の知事巻頭文)史実の解明、つまり宮崎が皇祖発祥の地だと立証することだった。
東京、京都の両帝大や東京帝室博物館(現・東京国立博物館)、宮内省(現・宮内庁)などから考古、歴史、人類学などの分野で第一線の頭脳が集結。後の考古学的調査に道筋をつけた、日本初の本格的な学術調査だった。

 1912年〜13年の第1次調査で、男狭穂塚、女狭穂塚の主に近い人物を埋葬した「陪塚」 (ばいちょう)とみられる169、170号墳を発掘。墳頂や裾部から形象埴輪の破片を採取した。後に一級史料と判明する二つの埴輪は、これらの調査によって得られた。

(中略)
 
 ともに最大長1mにもなる埴輪は、墳丘施設や出土した他の円筒埴輪などの年代研究の成果から、5世紀前半に造られたと見られる。
 千数百年ぶりに日の光を浴びた、後の重要文化財。またも、倉庫で眠りにつくことになる。学術調査では当初期待していた、記紀神話と交差する要素は見いだせず、調査対象の古墳はかなり時代が下ってからの築造という結論に落ち着いた。埴輪を持ち帰り保管していた東京帝室博物館は1923年(大正12年4月)、破片6箱分を返送したいと申し出た。
 今ならば、間違いなく受けとるところ。しかし、当時は埴輪の復元、研究を行う人材が手薄だったのだろうか、県は同年「埴輪片は不要なので(博物館で)処分してほしい」と文書で返答。文書は同年9月、関東大震災の被災で一度は所在不明になったものの、後に発見され帝室博物館への帰属の決定打となった。
 旗振り役の有吉知事はすでに本県を離れ、古代史を解明する機運が一段落していたことが、本県にとっては不運となった。同博物館で埴輪の復元作業が始まったのは、32(昭和7)年から。発掘より20年が経過していた。


引用おわり

西都原考古博物館の展示物を撮影したもの。 大正元年発掘調査を記録した石版
西都原考古博館 展示物 発掘調査石版


西都原考古博物館展示物 (発掘調査に携わった人々)

「お墓」の元へ帰って来て欲しいという気持ちもありますが、

展示されるなら、

東京で多くの方に見て頂き、当時、西都原に大きな権力者がいたということを知って頂いた方が、

古代の人も喜ぶのかなぁ〜とも考えたり・・・。
 

関連リンク 西都原古墳出土の埴輪  | 東京国立博物館サイト 画像:埴輪子持家(外部)
 






 「子持家形埴輪」(国重要文化財)


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PhotoMiyazaki 宮崎観光写真

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