亀山社中記念館(坂本龍馬関連コンテンツ)亀山社中は坂本龍馬により長崎で1865年に結成された浪士結社・貿易結社・商社 |
亀山社中記念館(長崎県)![]() 亀山社中は坂本龍馬によって結成された浪士結社・貿易結社・商社(後に亀山社中を母体に海援隊となる)その亀山社中(3棟)の1棟を再現したものです。![]() ![]() ![]() [車でのアクセス]![]() ![]() (付近に駐車場はありません・徒歩となります。) ![]() ![]() *当方では未確認ですが、ページ下部に土日祝限定の駐車場情報を記載しておきます。 (記載時点の情報です。先々どうなるか分かりません、事前確認を) ![]() [公共交通機関でのアクセス]![]() ![]() ![]() バス利用の場合には風頭山(かざがしら山)側から下る。(路面電車利用より楽なコース) ![]() (バス停・電停からのルートは右地図を参照してください。) 亀山社中概要坂本龍馬らは幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩の援助を得、慶応元年(1865年)、夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区)において日本最初の商社といわれる亀山社中を結成、ここを拠点とし、グラバー商会と銃器の取引を開始し藩に銃器などを卸した。 最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせて亀山社中と呼ばれました。 物資の輸送や航海訓練なども行い、1866年長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功。そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなった。 慶応3年(1867年)4月には坂本龍馬の脱藩が許され、龍馬は隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称、海援隊は長崎の小曽根邸を本拠地とした。 坂本龍馬が初めて長崎の地を踏んだのは、元治元年(1864)2月23日、亀山社中設立のために再び長崎に来たのは翌慶応元年(1865年)の6〜7月頃であった。 慶応元年(1865)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、日本最初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。この団体は、龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせてそう呼ばれました。亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったのです。 |
亀山社中メンバー坂本龍馬、陸奥陽之助、近藤長次郎、沢村惣之丞、長岡謙吉、佐場ク高次、石田英吉、腰越次郎、山本洪堂、高松太郎、関義臣、池内蔵太、中島作太郎、新宮馬之助、千屋寅之助、橋本久太夫、黒木小太郎、小谷耕蔵、白峰駿馬、渡辺剛八、野村辰太郎亀山社中設立と薩長同盟慶応元年(1865) 5月、龍馬はかねてから思い描いていた海運業を興すことになる。その夢の舞台は希望の地長崎であった。薩摩藩の後ろだてを得て、長崎を拠点として船を使って世界を相手に貿易をおこ なう社中(しゃちゅう) (カンパニー) を同志らと結成したのである。 薩摩藩から社中の一人につき三両二分の給料が支給された。 事業は居留地の外国人商人から武器などの物資を購入し、船で日本各地へ運ぶ運航代行業からスタートした。 当時活動の拠点として借りていた民家周辺が亀山焼の窯跡であったことから、龍馬の社中は亀山社中と呼ばれた。 亀山社中のメンバーは、居留地の外国人商人との取引を通じて、のちの薩長同盟に結びつく討幕のための重要な役割を演じていく。 幕府軍の第二次長州征伐が迫る長州藩のために、社中の仲介で英国人貿易商グラバーから薩摩藩名義で武器を購入することに成功。当時の長州藩は幕府から長崎での武器購入を禁止されていたのである。 長州藩から長崎に派遣されたのは伊藤俊輔(博文)と井上聞多(もんた)(馨) で、社中の紹介で薩摩藩の小松帯刀と会い、グラバーとの商談に臨んでいる。 亀山社中は武器を長州藩に送り、逆に長州藩から薩摩藩へ飢饉のため不足していた米を運ぶことになる (最終的には亀山社中が米をもらい受けている)。 こうして対立関係にあった両藩の間を取りもつ龍馬ら社中の奔走で、慶応二年(1866)一月、ついに薩長同盟は成立する。龍馬は亀山社中という商業活動をもって犬猿の仲の薩長を結びつけたともいえる。 この薩長同盟成立の意義はことのほか大きく、その後の日本を維新回天へと動かす、まさに原動力となっていくのである。
詳しいサイトのご案内(外部リンク) 海援隊の関連事件・事項録より
いろは丸衝突沈没事件 → いろは丸衝突沈没事件 ワイルウェフ号事件関連外部リンク → ワイルウェフ号沈没事件 イカロス号事件関連外部リンク → イカロス号事件 |
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![]() 赤いラインが今回歩いたルートです。赤印のポイント(亀山社中記念館〜龍馬のぶーつ像〜若宮稲荷神社〜若宮稲荷神社境内にある坂本龍馬像〜方形の鳥居〜亀山焼窯跡〜風頭公園に建つ司馬遼太郎の文学碑〜坂本龍馬の銅像上野彦馬の墓) については別途 龍馬通りのページで紹介しております。 地図上に記載した距離は基点からの最短距離で、今回赤でマーキングしたルート上での距離ではありません。 別の亀山社中付近地図リンク → 広域版 風頭公園側からショートカット(下る)よりは、当時をしのびつつ、寺町から龍馬通りを登った方が、良いかと思います。 運動不足の方には、夏場は、かなり辛いとは思いますが(^^;;) 水分を補給しつつ登りましょう。 |
*亀山社中記念館の駐車場情報*亀山社中記念館用の常設駐車場はありません、また、付近の駐車場はありませんので、上部に記載した長崎市街地駐車場マップリンク(PDF)で付近の駐車場を探して駐車の上、徒歩等で向かってください。(タクシーも一手段かと思いますが、亀山社中ぎりぎり近くまでは行けません。) 携帯ナビ等の為に緯度経度は記載しておりますが、決してカーナビ任せで車で向かわないでください、入りこむと、道幅は狭く、私道みたいな“生活道路”。坂道、袋小路や、Uターン不能なところが多いです。 土日限定・臨時駐車場等の情報など → 亀山社中記念館の駐車場・アクセス(バス・路面電車) (注)上記リンク先ページは、は2010年4月、ネット検索で見つけた臨時駐車場情報を元に作成したページであり、今現在もそうであるかは不明です。 *亀山社中記念館関連リンク*長崎市による公式サイト → 亀山社中記念館*亀山社中跡 の最近の経緯それまでは、亀山社中跡地は「活かす会」が平成元年以来活用していたようです。しかし居住していた所有者(活かす会副会長)が亡くなり、平成18年に所有者が変り、全ての展示物の撤去を余儀なくされた為、近隣の借家に、「亀山社中資料展示場」を設け、そこへ展示物を移動の上、展示、全国の龍馬ファンを無料で受け入れてきたようです。 かねてから「亀山社中公有化の意向」があった長崎市は、大河ドラマ「龍馬伝」の放映が予定されたこともあり、新しい所有者と協議の上、亀山社中跡の「10ヶ年間無償貸与」を合意、建物改修に数千万円をかけ、「亀山社中資料展示場」とは全く別の資料やコピーを展示して、2009年8月からの現在のスタイルでの有料公開となったようです。 → 詳しくはこちら *亀山社中関連ニュース関連ニュースなどの記事を箇条書きで・・・武田鉄矢さん、亀山社中記念館の名誉館長に2010年12月23日付 読売新聞によると・・ 長崎市は俳優で歌手の武田鉄矢さん(61)が、市亀山社中記念館の名誉館長に就任することを発表。 武田さんは自らのバンドを「海援隊」と名付けるほど、若い頃から龍馬の大ファン。 マンガ「おーい!竜馬」の原作を執筆したり、今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で勝海舟役を演じたりしたことを縁に、市が就任を依頼。武田さんも快諾したという。亀山社中記念館20万人 「龍馬伝」追い風に坂本竜馬が幕末の長崎に設立した日本初の商社亀山社中を復元した「亀山社中記念館」の入館者が16日、20万人を突破した。西日本新聞より (2010年7月27日)2月に10万人達成でしたから(下記事参照)、約5ヶ月で10万人動員という事になりますね。 2009年8月1日にオープンした「亀山社中記念館」2010年2月には入館者10万人を達成。 当初の市の見込みは年間2万5000人だったようです。 恐るべし、坂本龍馬人気。
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*余談・・・○○社中“亀山社中”でネット検索すると同名の・焼・肉・関連があるようで、その関連ページが多くヒットします。こういう歴史上、周知のものに対して少なくとも日本では商標はとれないと思っておりましたが、現在、食品会社が「亀山社中」の商標をとっているようです。それとも脈々と当時より引き継いできた社名なのでしょうかね ? 今からでも龍馬伝による龍馬ブームにあやかり、●●社中 という商用いろいろ申請したらいかがでしょう。 商標申請費用(労力)・維持費?もさるころながら最大の問題は・・熱しやすく冷めやすい日本人の性格でしょうか・・(笑) |
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