長崎 龍馬通り 寄り道処 (坂本龍馬関連コンテンツ) |
坂を登ってこそナンボの世界? やはり龍馬通りは下からでずぞ、決して楽をして下ったらいかんぜよ(笑) 長崎県 龍馬通り長崎市寺町通りの禅林寺と深崇寺にはさまれた路地(長崎市寺町)から、亀山社中跡(亀山社中記念館)を経て風頭公園(かざがしら公園)(長崎市風頭町)に至る、石段の坂道は、坂本龍馬をはじめ幕末の若き志士たちが登り下りした道で、「龍馬通り」と呼ばれています。このページでは、その龍馬通りで撮った写真の中より下記を紹介します。 ここで紹介する写真は、龍馬通りで撮影したスナップ、亀山社中記念館〜龍馬のぶーつ像〜若宮稲荷神社〜若宮稲荷神社境内にある坂本龍馬像〜方形の鳥居〜亀山焼窯跡〜風頭公園に建つ司馬遼太郎の文学碑〜坂本龍馬の銅像上野彦馬の墓 龍馬が初めて長崎の地を踏んだのは、元治元年(1864)2月23日 亀山社中設立のために再度長崎に来たのは翌1865年の6〜7月頃であった。 長崎は、龍馬が最も活躍した時期にその本拠を置いたところであり、今もゆかりの史跡が 数多く残されています。 龍馬通りの場所 龍馬通りの基点となるところは寺町通りの禅林寺と深崇寺の間です。 基点の位置地図リンク GPS(緯度経度) N=32.44.47 E=129.53.14 一応、このルートの終点?であろう、風頭公園、坂本龍馬像の位置。 坂本龍馬像の地図 GPS(緯度経度) N=32.44.33 E=129.53.17 周辺地図リンク → 広域版 専用の駐車場等はありませんので下記で付近の駐車場を探してください。 長崎市内の有料駐車場マップ PDF(長崎市サイト) *亀山社中(記念館)のページに土日限定の駐車場情報を書いております。 若宮稲荷神社までは割りに近いですが・・その先の道は少し単調になり、疲れも蓄積してか坂も結構辛いです。 左の、標柱の上の龍馬像は、風頭公園龍馬像の製作者である彫刻家・山崎和國によるものです。 長崎龍馬の道 ← というのもありますのでお間違いなきよう。諏訪神社からグラバー園付近に至るまでの道を、観光ルート「長崎龍馬の道」と位置付けているようですが、こちらは、辻々に1番から45番までの番号を振ったプレートや旗があるだけで、・・あまり龍馬を感じるものはありませんでした。 |
龍馬通りの地図(概略)*記載した距離は基点からの最短距離で、今回赤でマーキングしたルート上での距離ではありません。 |
龍馬通りへの入り口〜 |
「龍馬通り」と書かれたレリーフ龍馬通りの所々に掲げられた「龍馬通り」と書かれたレリーフ、当初、地元の方の手作りのものなのだろうなぁ?と思っておりましたが、あるWebサイトでは「2005年に山崎和國さん(銅像の作者)が作成、地元の「亀山社中ば活かす会」に寄贈したもので15ケ所に設置されている。」との事でした。 標語は「亀山社中ば活かす会」の会員の方が作られたようです。 |
亀山社中記念館(亀山社中の跡) 〜龍馬通り寄り道処〜長崎市伊良林2-7-24 亀山社中に関しては別ページあります→ 亀山社中記念館慶応元年(1865年)5月に、坂本龍馬はこの地に日本初の商社を設立し「亀山社中」と称しました。 亀山社中の事業は、航海・海運・貿易などでした。 慶応3年(1867年)4月、亀山社中は土佐藩直属の海援隊となり、坂本龍馬は隊長に任命されました。 亀山社中記念館は亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を長崎市が当時の姿により近い形で整備し、平成21年8月1日より一般公開。亀山社中、坂本龍馬に関する資料を展示しています。 開館時間 9:00〜17:00(最終入館〜16:45) 無休 入場料 大人300円、高校生200円、小中学生150円 亀山社中跡の写真といえば、左上の入り口の部分の写真がお約束?。実は前は狭い路地でして、あまり引けず、全体を入れようとすると結構ワイド系レンズを用意しておかないと収まりません。 |
龍馬のぶーつ像 〜龍馬通り寄り道処〜日本で最初にぶーつをはいたといわれる男、坂本龍馬。当時土佐では身分制度がきびしく下級武士である郷士の家に生まれた龍馬はぞうりしかはけなかった。自由の地長崎に来て龍馬はぶーつをはいて大いに張り切ったという。平成7年、亀山社中創立130周年を記念して市民有志の呼び掛けにより建立されたもの。 ブロンズ製 (高さ 0.4m×幅 0.6mを台座(高さ約 0.3×幅 1.2×長さ1.2 b)の上に設置す。海運・海軍で活躍した龍馬にちなんで、安全対策も兼ねた舵輪(支柱)を付設。 龍馬のぶーつ&文学碑について(外部サイトへのリンク・亀山社中ば活かす会) 自由に足を入れられるようです。 かなり大きいです。靴を履いたままぶーつを履いて記念撮影できるようになっているのでしょうね。 ここからの眺めもなかなかのものです。 長崎の街はホント猫が多いです。 龍馬通りでも何十匹も見かけました。 |
亀山社中資料展示場 (写真はありません) 〜龍馬通り寄り道処〜長崎市伊良林2-9-2開館時間 10:00〜12:00、13:00〜15:00 土・日曜、祝日のみ営業 入場料 無料 亀山社中記念館がある亀山社中跡に展示してあった資料などの展示場所として平成18年4月1日に借家を借り、開設。 写真等を中心に多くの資料が展示してある。 若宮稲荷神社 〜龍馬通り寄り道処〜坂本龍馬と若宮稲荷神社長崎市伊良林2丁目10-2稲荷大神を祀る神社 商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、交通安全、漁業繁栄など 楠木正成(1336没)の守誰神(稲荷大神)を延宝元年(1673年)に現社地に移したと伝えられる。 鎮座以来300有余年の歴史の中、特に元文元年(1736年)に長崎奉行細井因幡守安明が参道を開削し社殿を改築し敬神の誠を捧げられたのを初めとして、代々の奉行は固より世の多くの人々の尊崇をあつめ今日に至っている。 若宮稲荷神社は 「勤皇稲荷」とも呼ばれています。 これは、当稲荷が南北朝の武将・楠木正成(1336没)の守誰神であっlたことにちなみ、幕末に来崎した諸藩の志上が多く参詣したためと言われています 幕末当時、頼山陽の日本外史等の影響により、柚木正成の人気が高まり、勤皇の志士たちの厚い尊敬を集めていました。 坂本龍馬(1835〜1867)も正成を崇拝していたらしく、正成の最期の地である神戸、湊川では「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」という歌を詠んでいます。 また、今も残る写真には、正成所持の刀を摸して作らせたと言われる脇差を、腰に差した姿でおさまっています。 若宮稲荷神社は、龍馬の創設した亀山社中や、盟友角々木三郎と会飲した料亭・藤屋にも近いことから、たびたび参詣して、日本の維新回天が一日も早く成就する事を祈っていたのではないでしょうか。(現地案内板より) 若宮稲荷神社の 竹ン芸(たけんげ)毎年10月14日、15日の若宮稲荷神社は秋の大祭で奉納される竹ン芸(たけんげ) (国選択無形民俗文化財、長崎市無形民俗文化財)が有名です。白装束に男狐、女狐の面をつけ、高さ約11メートルの青竹の上で曲芸が行われます。その起源は中国伝来の羅漢踊といわれている。 → 動画リンク(Youtube)(外部サイトへのリンク) この竹ン芸(たけんげ)、以前、全国ニュースで見た事があります。大変賑わうようですね。 |
若宮稲荷神社境内にある坂本龍馬像 (風頭公園の龍馬像の原型) 〜龍馬通り寄り道処〜若宮稲荷神社境内にある坂本龍馬像。この龍馬像は高さ約1m重さ約80Kgの立像、平成元年(1989)に風頭公園に建てられた坂本龍馬像の原像となるもので、長崎市の彫刻家、山崎和國氏が約2か月かけて制作したもの。 「龍馬ファンに喜んでもらえれば」と、1991年、亀山社中跡を管理、運営していた「亀山社中ば活(い)かす会」に寄贈。 以来、亀山社中跡の庭に設置されていたものですが、長崎市が亀山社中跡の改修に入り、「改修後は、当時のままの亀山社中を再現したい」と会に像の移設を提案、同会が了承し、2009年6月末に龍馬も参拝したとされる若宮稲荷神社の境内に移されたようです。 経緯等、詳しくは→この方の記事(外部サイトへのリンク・市議さん?)をご覧ください。 台座に書いてあった文言 「慶応元年(1865年)幕末の風雲児坂本龍馬は、伊良林・亀山に日本最初のカンパニー「亀山社中」を創設した。 亀山社中は、商業活動のかたわら倒幕運動にかかわり維新回天の事業を推しすすめ、日本の近代化に大きな役割を果たした。 この銅像は、風頭山頂に立つ坂本龍馬之像の原型であり、龍馬ゆかりの地・亀山社中の一層の発展を願って制作者山崎和國氏から寄贈されたものである。 題字は、山崎和國氏書。 平成三年十一月吉日 亀山社中ば活かす会」 少し望遠気味のレンズで撮ると、背景に長崎の街を寄せられます。 銅像の写真をもっとみたい方はこちら → 坂本龍馬の銅像 |
亀山焼窯跡 〜龍馬通り寄り道処〜長崎市伊良林2-15亀山焼窯跡は文化4年(1807年)大神甚五平外3名がオランダ人に売る水瓶製造の窯を築き陶器を焼いたことに始まり、文化11年(1814年)白磁染付を焼くことに成功しました。 絵付けは南画家木下逸雲など有名文人墨客のものも多く、数々の名品を遺しましたが次第に衰弱し慶応元年(1865年)廃窯となりました。 今では幻の亀山焼とも言われ美しい南画家の絵柄ともあいまって愛好家達を魅了しています。 ここに窯の一部が現存していますのでこの貴重な遺跡を末永く保存し後世に伝えましょう。 / 伊良林 平自治会 もっと見たい方は → 亀山焼跡 |
坂本龍馬之像「龍馬の銅像建つうで会」の呼び掛けにより全国から集った募金により、平成元年5月21日建立された像です。 製作は長崎市在住の彫刻家、山崎和國氏が手がけた。 龍馬の後ろではためいている旗は、海援隊の隊旗です。 おそらくここは夜景も美しいのではないでしょうか? ひとけがない夜を想像すると・・ちょっと男性でも少し心細くなりそうなロケーションではありますが・・・(^^;) 銅像の写真をもっとみたい方はこちら → 坂本龍馬の銅像 |
上野彦馬の墓 〜龍馬通り寄り道処〜(日本におけるプロカメラマンの開祖)あまりに有名な坂本龍馬の肖像写真は上野彦馬はがとらえた龍馬の晩年の一枚。現在発見されている龍馬の写真7枚の内、少なくとも3枚は上野彦馬の撮影局(今で言うスタジオ)で撮影されたものだと推測されているようです。 上野家は絵師の家系であり、絵画、鋳金などに秀でており、幕末の当主俊之丞(しゅんのじょう)、彦馬父子は2代にわたり、写真技術の習得と普及に多大の功績を挙げ、わが国の近代化学研究の発展に寄与した。 上野彦馬(1838〜1904)が日本初の写真館「上野撮影局」を中島川河畔に開設したのは文久2年(1862)。 ほぼ独学で写真術をマスター、自作の写真機で最初に撮影に成功したのは、興福寺の山門といわれている。 文久2年(1862)暮れ彦馬は中島川河畔に日本最初の商業写真館・上野撮影局を開設。上野撮影局では、龍馬をはじめ多くの志士や、明治の高官、名士が撮影された。 伊藤俊輔(伊藤博文)、高杉晋作、桂小五郎たちの写真が今日あるのは上野彦馬のおかげと言えます。 上野彦馬は金星の観測写真や西南戦争の戦場跡も撮影、日露戦争が勃発した明治37年(1904)5月22日死去。享年66歳。 日本写真界の祖として高く評価されている。 墓地には上野家初代の左衛門尉英傳(さえもんじょうえいでん)、3代若元(じゃくげん)、5代若瑞(じゃくずい)、6代俊之丞、7代彦馬などの墓碑が立つ。 これら墓碑群のなかで最も古い、英傳の墓碑は五輪塔様式であり、延宝(えんぽう)3年(1677)の年代を示す。 関連リンク 「写真は長崎から」写真術の始祖・上野彦馬 → 長崎Webマガジン(外部サイトへのリンク) 風頭公園の地図(現地案内板を撮影) |
あ と が き ところで、この龍馬通りの坂、夏場は結構辛いかも知れません。水分補給を十分行いつつチャレンジしてください。寺町通りのお寺付近には駐車場はありませんし、路地並に道幅が狭いので車では入らない方が良いかと思います。 私は今回、下記リンクにある臨時駐車場に車を駐車、車に積んでいった自転車で長崎市内を廻りましたが、意外に駐輪所が殆ど無かったような。そういえば長崎市内では自転車に乗る方を殆ど見かけなかった気もします。坂が主体の街だからなのでしょうか。 そうそう、猫の写真を一枚掲載しましたが、道中、かなりの数の猫を見かけました。 長崎における龍馬や幕末偉人のゆかりの地・・、神社仏閣グラバー邸以外にはあまり当時の遺構は残っておらず、跡地の片隅に石柱と案内板が建っているところが意外に多いです。 余談 Yahoo!知恵袋に こんな質問がありました(笑) → 知恵袋(外部サイト) 質問内容 “龍馬伝の影響で観光客が増えた長崎の「風頭公園」や「亀山社中記念館」、「若宮稲荷神社」、「亀山社中資料館」などに行かれた方に質問です 電車通りから登られた方、途中でいやになりませんでしたか?” 回答より一部引用 “長崎の坂は上り方向で眺めたとき風情が感じられるというのがありますから。” 賛成!!(笑) 当サイト内・坂本龍馬関連コンテンツ 表紙海援隊の前身 → 亀山社中跡長崎市内の坂本龍馬関連企画展→長崎奉行所・馬伝館 長崎市内のもうひとつの坂本龍馬関連企画展→ 長崎まちなか龍馬館 日本ではじめての新婚旅行? 高千穂峰(鹿児島県/宮崎県にまたがる霧島連峰) 当サイトブログ記事 NHK大河ドラマ「龍馬伝」 いよいよ第3部・長崎ロケ・鹿児島ロケ 龍馬伝 鹿児島ロケ・霧島ロケ NHK「龍馬伝」関連、書籍、CD、DVD、ブルーレイなど 長崎と龍馬 臨時駐車場パーク(駐車)&ライド(バス)駐車場案内(PDF)(長崎市サイト) 長崎市内の駐車場 → 長崎駐車場マップ関連(長崎市サイト) 個人/商用等で写真を使用したい場合には→写真の使用についてをご覧ください。 |
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