宮崎県指定史跡 去川の関跡![]() 二見家の伝記によると、伊勢国の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ裏の城主、二見岩見守久信(ふたみいわみのかみひさのぶ)は、今から約450年前の永禄年間(1558年〜1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷(かもうこうり)に逃げ移ったと伝えられています。 天正年間(1573年〜1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代、島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。 義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番(ごじょうばん)に二見守久信を命じました。 以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871)のため関所も御定番も廃せられてしましました。 去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷、倉岡郷、そして支藩佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取調べが行われていた所といわれています。 当時は、現在の去川小学校の門前に渡船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅につきました。今ではその遺跡として門柱の礎石が一つ残っているだけです。 指定年月日 昭和8年12月5日 宮崎市教育委員会 *右図は去川の大イチョウ(国指定天然記念物)案内も兼ねて当方で作成したもので地図はおおまかな概要です。 |
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(さるかわせきしょ ごじょうばん ふたみけぼせきぐん) |