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古事記編さん1300年(宮崎)関連 つれづれ つぶやき【001】 〜隼人(ハヤト)の盾もモチーフ?宮崎県古事記編さん1300年ロゴ〜 |
宮崎県の記紀編さん1300年ロゴ 下の波(渦巻き)隼人の楯の模様に似てるような気がして・・ |
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宮崎県によると・・この 神話のふるさとみやざき 温故知新ものがたりロゴマークのコンセプトは、 「日向神話の舞台である山・渓谷(里)・海を表現 天孫降臨神話の舞台である「山」 緑に覆われた「渓谷」 海幸山幸神話の舞台である「海」 「山」と「渓谷」でMiyazakiの「M」を表現 海の波(渦巻き)で海幸山幸に由来する「釣り鉤」を表現 色調は太陽を浴びて輝く山の赤、渓谷の緑、海の青で宮崎の豊かな大自然を表現」・・とありますが・・。 もう一つのロゴ解釈?下の波(渦巻き)は、実は「ハヤトの盾」に描かれた逆S字渦巻き模様もモチーフの一つとなっているのではないでしょうか?古事記の編さんされた頃の時代背景、(ハヤトの反乱)等々、史実・歴史を考えると、ありそうな気もしないでもないです・・。 そうやって考えると、このロゴは・・ 天孫族・ヤマト政権(山幸)がハヤト(海幸の祖とも言われる)を抑えているのを表現したものにも見えてきたりもして・・・ ハヤトの楯の写真の手持ちが無いので、Web検索で見つけたページを、参考にリンクしておきます。 似ていると思いませんか? 隼人の盾 参照リンク 隼人の盾 Google画像検索結果 隼人塚 祀る側と祀られる側(新しいウインドウで開きます) 以上 私の単なる妄想でした(笑) 2012.06.17記 |
【追記】 7月17日記 そもそも、隼人の盾の板の逆S字は、釣り針を意味しているようで、山幸彦、海幸彦つまり、古事記に由来しているようです。(納得) 【追記】 9月14日記 その後、2012年9月に入手した、宮崎県教育委員会発行の交差する歴史と神話 みやざき発掘100年 パンフレットに、「隼人の楯」について書かれておりました。 - パンフレットより引用 -やはり 「隼人の楯」 も関連していたようです。 当たっていて うれしかったり! |
ニニギノミコトが降臨したと伝承される山は、県内にいくつかあり、古事記では「日向の高千穂のくじふるたけ」、日本書紀ではこのほかに「くしひの高千穂のたけ」「高千穂のくしひの二上のたけ」などを挙げている。 ニ上山は、五ヶ瀬町と高千穂町にまたがる標高1060mの山、男岳と女岳の二つの頂をもつ。山岳信仰の地として崇敬を集めてきた。 日向風土記逸文(釈日本記)には「日向の高千穂の二上の峰に天降りましき」とある。 「釈日本紀」(しやくにほんぎ)が引用する「日向風土記」の逸文。 日向(ひむか)の国の風土記に曰く、臼杵(うすき)の郡(こほり)の内、知鋪(ちほ)の郷(さと)。天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)、天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を排(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(みちわ)き道別(みちわ)きて、日向の高千穂の二上(ふたがみ)の峯に天降りましき。 |
高さ2mの丘の上に五重石塔3基と石像4体が立つ。 石塔は中央の1基が高さ6.6m、両脇の2基が約5.6mとなっている。 隼人塚の由来は、熊襲の祟り鎮めのため和銅元年(708年)に作ったという説と、養老4年(720年)の隼人の反乱における死者の慰霊のために作ったという説がある。 しかしながら江戸時代の地誌記録「三国名勝図会」によると「隼人塚」は現在の史跡隼人塚より約4キロメートル北東の国分重久付近にあるとされており、さらに史跡隼人塚から「旧正国寺跡石仏」(隼人塚史跡館所蔵、鹿児島県指定有形文化財)と同じ康治元年(1142年)の銘を持つ石仏が出てきたことから、現在の史跡隼人塚は平安時代後期に正国寺(廃寺)の前身寺院として作られたという説が有力になっている。 (説明文はWikipadiaより) 上の隼人塚の写真は、数年前に撮影、お蔵入りしていたものですが、ここは後ろにマンションが建ち、おまけ後ろは線路、電線はあるは・・で、写真を撮り辛いところであります。 オススメ本の紹介 (読みやすい内容です。) 明治〜昭和における、鹿児島・宮崎における日向神話とのかかわりに付いて書かれた、神になった隼人 日向神話の誕生と再生 (南日本ブックス) もともとは南日本新聞に連載されたものをまとめ、補記ししたもののようです。 内容が知りたい方もいらっしゃるでしょうから目次のみ別ページに紹介。 → 神になった隼人(目次) |
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