槵觸神社本殿の彫刻
ご覧のページは、槵觸神社本殿の彫刻の写真のページです。槵觸神社については、
槵觸神社ページをご覧ください。
1920pixサイズの写真をリンク掲載しております。出来れば大きな画面でご覧ください。
主な写真は写真上をクリックすると、大きなサイズに拡大します。スマホ等でうまく拡大しない場合には、写真下の文字リンクをタップしてください。
二十四孝関連と思われる彫刻についての文、黒文字は、
楡山古典講座 資料 二十四孝絵鈔より引用、
緑文字は
wikipadiaより引用しました。
二十四孝 楊香(ようこう)
楊香は魯の楊老がむすめ也。幼して孝也。父につかへて暫くもはなれず。
或時父にしたがひ山に入て薪をとるに、大なる虎出て父を食んとす。楊香その時年十五なるが、少しもおそれず虎にむかひ、なみだをながし「吾をがいして父の命をたすけよや」と、とらに飛かかりければ、とらは敢て食んともせず、かへつておそれ逃去りけると也。
誠に孝子の志のせつなるを、天より助給へる也
楊香(ようこう)には一人の父がいた。ある時父と山に行った際に虎が躍り出て、今にも2人を食べようとした。楊香は虎が去るように願ったが叶わないと知ると、父が食べられないように「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さいませ」と懸命に願ったところ、それまで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子共に命が助かった。
二十四孝 郭巨(かくきょ)
後漢の郭巨、家まづしければ、其母をやしなふに食の不足ならんことを悲めり。一子ありて既に三歳に及び、老母これを愛して我食の中をわかちあたふ。
郭巨いよいよ母の食乏しからんことを察して、其妻とはかりて小児を埋み殺さんと、坑を掘る事二三尺にして黄金一釜を得たり。
上に文字あり、曰「天孝子郭巨に賜ふ」と。是より其家富さかえけるとかや
郭巨(かくきょ)の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。妻に子供が産まれ、3歳になった。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。郭巨が妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と。妻は悲嘆に暮れたが、夫の命には従う他なく、3歳の子を連れて埋めに行く。郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、その釜に文字が書いてあった。「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と。郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くした。
二十四孝 江革(こうかく)
後漢の江革は、幼して父をうしなひ、母につかへて孝行の聞えあり。
其頃天下大に乱れければ、母を背におひて乱をさけ、其身は人にやとはれて賃をとりて母をやしなひけり。世をさまりて故郷へ帰りけるに、自ら牛にかはりて車を曳けり。
仍て世に江巨孝とよびけり。巨孝とは大なる孝子といふ事也。かく世に名あるを以て朝廷へめされて高官を賜り栄えけるとなり。
二十四孝 王祥(おうしょう)
晋の王祥は、継母これをにくめども恨とせずして孝をつくす。
其母寒中に生魚を食んといひければ、王祥即ち池に臨て魚をとらんとしけるに、水凍りて叶はず。王祥衣をぬぎて、氷の上に臥し、身のあたたまりを以て氷を割んとす。天 其至孝なるを感じ給ひけるにや、厚き氷忽ちさけて双の鯉魚をどり出たり。喜びとりて帰り母にあたへけるとかや。
王祥(おうしょう)は母を亡くした。父は後妻をもらい、王祥は継母からひどい扱いを受けたが恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。実母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。
二十四孝 孟宗(もうそう)
孟宗は呉国の人也。いとけなきに父をうしなふ。其母賢にして学ををしへ孫皓につかへて司空となる。
此老母 笋を好みて食しける。或冬の頃 病に臥て、すずろに是をもとむ。時に天寒しく雪降ことはなはだし。孟宗竹の林にいたりて天にいのりて笋をもとむ。忽ち雪をうがつて笋あまた生出たり。喜び とりて家に帰り母にあたへければ、老病頓に平癒しけり。
是孝行の徳なりける。
孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍があるはずもない。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう。
二十四孝 姜詩(きょうし)
後漢の姜詩は母につかへて至孝なり。其妻もまた姑に孝なり。
其母 井の水をきらひ、江水をこのみけり。其家清き江に遠し。
姜詩が妻 日々に遠処の清江にいたりて水を汲て帰る。又其母 生魚の鱠を好みければ常に調へてすすめけり。
其後姜詩が家の側に、清泉わきいづ。其味ひ江水に同じ。又日々に双鯉をどり出て、供養の労をたすけけるとなり
姜詩(きょうし)の母は、いつも綺麗な川の水を飲みたいと思い、魚を食べたいと言っていた。姜詩と妻は、いつも長い距離を歩き、母に水と魚を与えてよく仕えた。するとある時、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が湧き出て、毎朝その水の中に鯉がいた。姜詩と妻の孝行を感心に思って天が授けたものであろう。
〔高千穂町関連ページ〕
その他の宮崎の写真も是非ご覧下さい(このページは一部です)
-Miyazaki sightseeing photograph collection-
The contents of this site are written in Japanese only Please use English
translationsite.
槵觸神社本殿の彫刻(宮崎県西臼杵郡高千穂町)