黒北発電所 記功碑についてこの記功碑は、発電所上流 沈砂池内に建立されていたが、広く公開するために昭和36年3月この地に移設したものである。 ![]() ある日、柴岡晋氏が汽車に乗っていると、隣の席で「国を発展させる為には工業をおこさねばならない。そのためには水力発電所を造り、工場の動力に電気を使うことだ」と熱心に話しているのを耳にした。 柴岡氏はこの話に感動し、日夜考え続けた。 ついに明治33年大和田伝蔵氏と共に賛同者を募り発電所建設に踏み切った。 最初に計画した鵜木川は地形が悪く断念。 翌年、清武川北岸に再度計画し、測量や設計も終わったが、経験の無い者が進める事業に対する不安から、投資をする人がなく建設計画は暗礁にのりあげた。 たまたま四国の松山に電気事業に詳しい才賀藤吉という人がいる事を聞き、柴岡、大和田両氏は松山に出向いた。 対面してみると才賀氏は、数年前車中で隣合わせた人だった。 お互いその奇遇に驚くとともに意気投合。 宮崎に来た才賀氏は計画地点を一目みるなり、清武川北岸より南岸は良いと判断した。 測量してみると才賀氏の云う通りで、氏の見識の深さに皆感銘した。 しかし、府県統合や日露戦争の勃発などで、建設は再度中断した。 ようやく明治39年5月、日向水力電気株式会社を設立。資金10万円を投じて工事開始、40年7月完成。 8月から営業を開始した。 電灯の便利さを知った人々は競って使用するようになり、夜もこうこうと不夜城のようになり、文化の灯はたちまち広がっていった。 ここに創業者の苦難と功績を記して永遠に伝えたい。 明治44年10月 日向水力電気株式会社建立 碑文の題字は才賀藤吉書 碑文は多賀谷良策選弁書 (現地案内板より) 記功碑拡大写真 (漢文で記述されているようです。) |
最大出力 200Kw 最大使用水量 1.67m3/sec
有効落差 16.67m 水車 ドイツ製-フォイト社 1906年製 発電機 ドイツ製-アルグマイネ社 1906年製 清武町のWebサイトを参照すると、当時の電気量は、約20W1灯(電気スタンド程度の明るさ)で1ヶ月70銭(現在の6〜7千円相当)と大変高価だったようです。 当時は、黒北発電所(200KW)だけで宮崎市の電気がまかなえたようです。 現在、仮に1件当り1KWの消費量とすると200軒分の電気が供給できる計算となります。 |
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