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木崎原古戦場跡 宮崎県指定史跡

えびの市の位置木崎原(きざきばる)古戦場跡の場所、地図(マップ)

場所: 宮崎県えびの市大字池島 地図(マップ): Map
GPS N=32.02.09 E=130.49.58 駐車場・トイレ完備 (2009年7月確認) 

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)

元亀3年(1572)、伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦で、伊東側、の大軍(3000人という説が有力)を僅かな兵力(300人)の島津側が破った事より「九州の桶狭間」とも呼ばれる。
この戦いを機に伊東氏は急激に衰亡、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」で破れ豊後(今の大分県)へと落ちるのでした。
「木崎原合戦」とは島津側の呼び方で、伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」とされている。

木崎原古戦場跡の案内板より


元亀3年(1572)5月3日夜、小林の三山城を出発した伊東軍約3,000は4日未明、まず別働隊を派遣して加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還り、鳥越城に布陣した後続軍と合流しました。

木崎原古戦場跡 合戦地図  しかし、眼前の島津軍の劣勢を侮り決戦の時を逸し、この間に、敵襲の狼煙により吉田・馬関田・吉松郷及び北薩の各地より急遽馳せ集まった島津軍に包囲され、一大決戦を交えた古戦場跡です。

 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、島津氏は三州制圧の夢を果たし、一方伊東氏は、居城都於郡を追われ衰退の一途をたどるという、両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来、世に「島津、伊東の関ヶ原合戦」といわれています。

 この合戦にかかわる史跡に、飯野城跡・加久藤城跡・鳥越城跡・首塚・太刀洗川・三角田・六地蔵塔・元巣塚・二八坂(上別府坂)などがあります。
(小林には、二山城跡・伊東塚・粥持田などがあります) / えびの市教育委員会

合戦の説明図は現地案内板を撮影したものです。

写真はクリックすると新しいウインドウで1024pixに拡大します。

木崎原古戦場跡の碑

 松形知事時代のものですから、最近作られたものです。
木崎原古戦場跡 碑 01


六地蔵塔

木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560人余、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・味方双方の戦死者の霊を供養しました。
 島津氏は、大きな戦いの跡地には殆ど六地蔵塔を建立して供養しています。 / えびの市教育委員会

Battle of Kisakibaru Historic Site (kisakibaru kosenjyou)
On May 4th, 1572, a fierce battle took place here between the troops of Shimazu and Ito. The Rokujizo-to (Jizo of the Six States of Existence) was built by the war lord Shimazu as a memorial to casualties on both sides. There is also a monument to the poetry of Yoshihiro Shimazu. 


木崎原古戦場跡 六地蔵塔 02木崎原古戦場跡 六地蔵塔 03

腰掛石

伊東新次郎との一騎打ちで島津義弘はこの石の腰を掛け一息したという。(下・左写真)

島津義弘公歌碑  いそぐなよまた急ぐなよ世の中の定まる風の吹かぬかぎりは

17代島津家当主・島津義弘公は、知勇兼ね備えた天下の名将でした。
16世紀後半の戦国の世で活躍。市内飯野城で26年間居城し、ここ木崎原の地をはじめ九州各地を転戦。
その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原合戦では、すぐれた戦略と行動力で名を全国に知らしめました。特に関ヶ原での家康本陣を少数で突いた敵中突破は、その歴史の語り草となっています。
また、文化等の面でも文芸、茶道、陶芸、医学等で功績を残しました。
この歌は関ヶ原合戦の折に詠まれたものです。  / 平成6年3月えびの市建立 (下・右写真)

木崎原古戦場跡 腰掛石 04 木崎原古戦場跡 島津義弘公歌碑 05

木崎原古戦場供養祭

木崎原合戦で戦死した島津藩・伊東藩の武者を弔う供養祭が5月4日に木崎原古戦場跡で行われている。

首塚

この塚は伊東軍の首塚と言われている。木崎原合戦の際、伊東軍の戦死者は五百余命。
島津軍は、首実検の後、名だたる将及び宗徒の首を小林の三ツ山城へ送り返し、その首は、伊東塚へ葬むられた。
その他の首は、この地へ埋められ供養されたものである。
首塚のところに樹齢400の「クロキ」がありました。

首塚 06クロキ 07

太刀洗川(方言:たっちゃらご)

鳥越城より流れ出るこの川は、昔は水量も多く、木崎原合戦の際、引き揚げてきた島津の将兵が血刀を洗ったと言われている。 / えびの市教育委員会

太刀洗川(方言:たっちゃらご)

首塚と太刀洗川は道路を挟んで隣接。
木崎原古戦場跡から車で数分の距離だったと思います。


木崎原古戦場跡(宮崎県指定史跡) の写真 


末永の「田の神さあ」も近く(車で5分程度?)にあります。


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