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小村寿太郎(こむらじゅたろう)生家 ・ 日南市飫肥(おび)

 明治時代を代表する外交官小村寿太郎は、飫肥城下の町役人の長男として、現在の生誕碑の場所で生まれた。
その後、小村家が破産したため、明治時代後期に、生家は振徳堂の裏に移築され、さらに、大正10年(1921)に現在地に移築されたものである。
その後は大きな改修は行われずに現在に至っている。
飫肥重要伝統的建造物群保存地区における伝統的な建築様式を現在に伝える重要な建物であり、また、飫肥が生
んだ明治の大外交官小村寿太郎縁の建物としての価値も高い。
 近年に空き家となって老朽化が著しくなったため、市が改修整備して、平成16年(2004)4月から公開している。

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小村寿太郎(こむらじゅたろう)生家 01


小村寿太郎(こむらじゅたろう)生家 02

小村寿太郎 略年譜


安政2年(1855)  
文久1年(1861)
明治2年(1869)
明治3年(1870)
明治8年(1875)
明治13年(1880)
明治17年(1884)
明治34年(1901)
明治35年(1902)
明治37年(1904)
明治38年(1905)
明治41年(1908)
明治44年(1911)
明治44年(1911)
10月26日、日南市飫肥下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれる。
6歳 飫肥藩校振徳堂入学する。
14歳  英語を学ぶために長崎に留学する。
15歳  大学南校(現・東大)に藩の代表学生として入学する。
20歳  文部省の留学生に選ばれ、ハーバード大に入学する。
25歳  司法省に就職する。
29歳  外務省に転職する。
46歳  第1次桂内閣の1度目の外務大臣になる。
47歳  日英同盟の成立にかかわる。
49歳  日露戦争が起こる。
51歳 ポーツマス条約の締結にかかわる。
54歳  第2次桂内閣で2度目の外務大臣になる。
56歳  関税自主権の回復のため、各国と通商条約を締結する。
56歳  11月26日、神奈川県三浦郡葉山町にて56歳で亡くなる。

ポーツマツ講和条約の締結


明治37年(1904)に日露戦争がはじまり、日本が苦戦をしながらも優勢に展開する中、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、アメリカのポーツマス市で講話のための話し合いにはいることになりました。
 我国の財政はこの戦争のために逼迫(ひっぱく)しており、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。
 日本の全権大使が小村、ロシアの全権大使がウイッテでした。小村は明治38年(1905)8月10日の第1回の会談から、9月5日の日露講話条約の調印まで、ねばり強く交渉にあたりました。
 交渉にあたって、困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったということでした。
 このような中で、寿太郎は戦争終結のため、あらゆる外交努力を重ねて、困難を克服し、条約をまとめあげていったのです。 (みやざきひむか学ネットより)






(小村寿太郎生家は飫肥城大手門から歩いて5分程度のところにあります。)

小村寿太郎(こむらじゅたろう)生家(日南市飫肥) の写真 




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