高原町郷土史・第23章第8節享保の大炎上 (霧島山(新燃岳)享保の噴火)













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新燃岳の文献より


http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyazaki/news/20110301-OYT8T01055.htm 読売新聞によると

“13年前から新燃岳の文献を研究している鹿児島県姶良(あいら)市歴史民俗資料館の尾口義男館長(62)は、
薩摩藩が京都・近衛家に送った手紙なども分析。
それらを総合すると、1716年(享保元年)から噴火が始まり、同年には高原郷(高原町)で神社の参拝客と飛脚
の5人が火山れきに当たって死亡。噴火は1718年まで続き、死傷者は計39人、火砕流で一帯の寺社や家屋
645戸が焼失した。
 「大洪水にて燃石(もえいし)流出、死人等過分に有之(これあり)」(三州御治世要覧)。

大規模な土石流が起きたのは噴火が沈静化した約3年後の1721年(享保6年)。
大雨が断続的に降って土石流が発生し、高原町周辺で多数の犠牲者が出たという。

 降灰被害も甚大で、火口の南東約15キロの山之口郷(都城市)にあった藩監視所に1歩(3・3平方メートル)
あたり6斗4升(約115リットル)の灰が積もった記録も残る。

被災した田畑は一帯の4割に当たる約6240ヘクタール。
地殻変動で川の水が減って生活に影響が出たり、硫黄に汚染された川で魚が死んだりした。” とあります。



現在の防災マップ等は、これらの過去の文献等も参照し、作られているようです。


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