このページは当サイト内「天ヶ城公園」のページの写真補足ページです。 上記リンク先もあわせてご覧下さい。 天ヶ城公園の樹齢40年のソメイヨシノは東斜面を中心に約1,300本あり「千本桜」と呼ばれ、3月下旬〜4月上旬に見ごろを迎えます。 ツツジも50,000本植栽され、桜に続いて見事な紅の花を咲かせます。 天ヶ城の沿革慶長5年(1600年)第17代島津家当主島津義弘は、関ヶ原の合戦に敗れ、日向細島を経て帰国途中、八代村(現国富町)に宿泊しました。「関ヶ原天下分目の戦」と全国が見守ったこの大戦で、徳川家康の勝利が全国に知れわたると、島津氏と長年戦ってきた伊東氏の重臣、清武城主、稲津掃部介は、「島津氏を滅ぼして伊東氏の旧領を取り戻すのは、この時期以外にはない。」と考えます。 彼は、即座に兵を率いて、宮崎を平定北進し、佐土原城下に迫り、その一部は、義弘が宿泊している八代村に向かって進軍しました。 それに対して、島津領内の近傍の領主達は、取るものも取りあえず、八代村へ兵を進め、ようやくのこと稲津の兵を食い止めると、義弘は、兵数十名を引き連れて八代村を脱出し、かろうじて鹿児島にたどり着くことができました。 義弘は、この事件を経験して、国境警備の必要性を痛感し、伊東氏に備えるため、久津良名(現高岡中央部)を城地に取り立て、城を「天ヶ城」と命名し、島津氏と関係の深かった地域から武士多数を強制移住させました。そして、比志島紀伊守国貞を初代地頭に任命し、「高岡」を前線の要としました。これが、「高岡郷」の創設とされています。 その後、天ヶ城は廃城となり、城にいた武士たちは、全員城を引き払い、麓(現高岡市街地)に下り住みました。 天ヶ城は、山の自然の地形を上手に利用した山城であったとされています。 (高岡町サイトより) |
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